二月七日に歿した。日野屋の財産は一旦《いったん》忠兵衛の意志に依《よ》って五百の名に書き更《か》えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために新少納言《しんしょうなごん》と呼ばれたという一面がある。同じ頃|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》の女《むすめ》俊《たか》に少納言の称があったので、五百はこれに対《むか》えてかく呼ばれたのである。
五百の師として事《つか》えた人には、経学に佐藤一斎、筆札《ひっさつ》に生方鼎斎《うぶかたていさい》、絵画に谷文晁、和歌に前田夏蔭《まえだなつかげ》があるそうである。十一、二歳の時|夙《はや》く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を聴《き》くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう稽古《けいこ》の為方《しかた》であっただろう。
師匠の中《うち》で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた
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