足る教育を施し、二人の女《むすめ》にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学《けいがく》などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此《かく》の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内|但馬守《たじまのかみ》盛豊《もりとよ》の子、対馬守《つしまのかみ》一豊《かずとよ》の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏《みつばがしわ》の紋を附け、名のりに豊《とよ》の字を用いることになっている。今わたくしの手近《てぢか》にある系図には、一豊の弟は織田信長《おだのぶなが》に仕えた修理亮《しゅりのすけ》康豊《やすとよ》と、武田信玄《たけだしんげん》に仕えた法眼《ほうげん》日泰《にったい》との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔《すえ》であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽《にわか》に定《さだ》めることが出来ない。
その三十一
五百《いお》は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。
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