詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち来り※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]ち去った女《むすめ》好の名は見《あら》わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館《せいじゅかん》で書を講じて、陪臣|町医《まちい》に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新《あらた》に講師が任用せられた。初《はじめ》館には都講《とこう》、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時|多紀藍渓《たきらんけい》時代に百日課《ひゃくにちか》の制を布《し》いて、医学も経学《けいがく》も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴《き》かせたのである。百日課は四年間で罷《や》んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起《た》たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎《もたら》した。社会にお
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