》を鑑賞することについては、なにくれとなく教《おしえ》を乞い、また古器物《こきぶつ》や本艸《ほんぞう》の参考に供すべき動植物を図《ず》するために、筆の使方《つかいかた》、顔料《がんりょう》の解方《ときかた》などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国《りょうごく》の万八楼《まんはちろう》で催したのを名残《なごり》にして、今年|亡人《なきひと》の数に入《い》ったのである。跡は文化九年|生《うまれ》で二十九歳になる文二《ぶんじ》が嗣《つ》いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻|阿佐《あさ》は、もう五年前に夫に先《さきだ》って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏|徳《とく》が二女《じじょ》好《よし》を生んだが、好は早世した。閏《じゅん》正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男|八三郎《はちさぶろう》が生れたが、これも夭折《ようせつ》した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初《はじめ》において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の
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