、保さんが知っていたが、年歯《ねんし》に至っては全く所見がなかったからである。
過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、字《あざな》を信卿《しんけい》といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。法諡《ほうし》して宗経軒《そうけいけん》京水|瑞英居士《ずいえいこじ》という。
これに由って観《み》れば、京水は天明六年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の中《うち》では最年少者であった。
後に抽斎と交《まじわ》る人々の中、抽斎に先《さきだ》って生れた学者は、安積艮斎《あさかごんさい》、小島成斎、岡本|况斎《きょうさい》、海保漁村である。
安積艮斎は抽斎との交《まじわり》が深くなかったらしいが、抽斎をして西学《せいがく》を忌む念を翻《ひるがえ》さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は重信《しげのぶ》、修して信《しん》という。通称は祐助《ゆうすけ》である。奥州|郡山《こおりやま》の八幡宮《はちまんぐう》の祠官《しかん》安藤筑前《あんどうちくぜん》親重《ちかしげ》の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の里正《りせい》今泉氏《いまいずみうじ》の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に奔《はし》った。しかし誰《たれ》にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧|日明《にちみょう》が見附けて、本所《ほんじょ》番場町《ばんばちょう》の妙源寺《みょうげんじ》へ連れて帰って、数月《すうげつ》間|留《と》めて置いた。そして世話をして佐藤一斎《さとういっさい》の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして林述斎《はやしじゅっさい》の門に入《い》った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が万延《まんえん》元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
小島成斎名は知足《ちそく》、字《あざな》は子節《しせつ》、初め静斎と号した。通称は五一である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に文久《ぶんきゅう》二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には甫《はじ》めて十歳である。父|親蔵《しんぞう》が福山侯|阿部《あべ》備中守|正精《まさきよ》に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。
その二十一
岡本况斎、名は保孝《ほうこう》、通称は初め勘右衛門《かんえもん》、後|縫殿助《ぬいのすけ》であった。拙誠堂《せつせいどう》の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『荀子《じゅんし》』、『韓非子《かんぴし》』、『淮南子《えなんじ》』等の考証を作り、旁《かたわら》国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の生《うまれ》で、抽斎の生れた文化二年には僅《わずか》に九歳になっていたはずである。
海保漁村、名は元備《げんび》、字《あざな》は純卿《じゅんけい》、また名は紀之《きし》、字は春農《しゅんのう》ともいった。通称は章之助《しょうのすけ》、伝経廬《でんけいろ》の別号がある。寛政十年に上総国《かずさのくに》武射郡《むさごおり》北清水村《きたしみずむら》に生れた。老年に及んで経《けい》を躋寿館《せいじゅかん》に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父|恭斎《きょうさい》に句読《くとう》を授けられていたのである。
即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が十《とお》、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
次に医者の年長者には先ず多紀《たき》の本家、末家《ばつけ》を数える。本家では桂山《けいざん》、名は元|簡《かん》、字は廉夫《れんふ》が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りゅうはん》、名は胤《いん》、字は奕禧《えきき》が十七歳、末家では※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、名は元堅《げんけん》、字は亦柔《えきじゅう》が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
この中《うち》抽斎の最も親しくなったのは※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水
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