話がある。独美は或時大きい蝦蟇《がま》を夢に見た。それから『抱朴子《ほうぼくし》』を読んで、その夢を祥瑞《しょうずい》だと思って、蝦蟇の画《え》をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。
その十五
池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した妙仙《みょうせん》、寛政二年に歿した寿慶《じゅけい》、それから嘉永元年まで生存していた芳松院《ほうしょういん》緑峰《りょくほう》である。緑峰は菱谷氏《ひしたにうじ》、佐井《さい》氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
独美が厳島から大阪に遷《うつ》った頃|妾《しょう》があって、一男二女を生んだ。男《だん》は名を善直《ぜんちょく》といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は長《ちょう》を智秀《ちしゅう》と諡《おくりな》した。寛政二年に歿している。次は知瑞《ちずい》と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを審《つまびらか》にすることが出来ない。
独美の家は門人の一人が養子になって嗣《つ》いで、二世瑞仙と称した。これは上野国《こうずけのくに》桐生《きりゅう》の人|村岡善左衛門《むらおかぜんざえもん》常信《じょうしん》の二男である。名は晋《しん》、字《あざな》は柔行《じゅうこう》、また直卿《ちょくけい》、霧渓《むけい》と号した。躋寿館《せいじゅかん》の講座をもこの人が継承した。
初め独美は曼公《まんこう》の遺法を尊重する余《あまり》に、これを一子相伝に止《とど》め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が諫《いさ》めていうには、一人《いちにん》の能《よ》く救う所には限《かぎり》がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に殖《ふ》えて、歿するまでには五百人を踰《こ》えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて螟蛉子《めいれいし》となったのである。
独美の初代瑞仙は素《もと》源家《げんけ》の名閥だとはいうが、周防《すおう》の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が入《い》って後《のち》を襲った。遽《にわか》に見れば、なんの怪《あやし》むべき所もない。
しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田|京水《けいすい》である。
京水は独美の子であったか、甥《おい》であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙|晋《しん》の子|直温《ちょくおん》の撰んだ過去帖《かこちょう》には、独美の弟|玄俊《げんしゅん》の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を嗣《つ》ぐことが出来ないで、自立して町医《まちい》になり、下谷《したや》徒士町《かちまち》に門戸《もんこ》を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、癆《ろう》を恐れ、癌《がん》を恐れ、癩《らい》を恐るるよりも甚だしく、その流行の盛《さかん》なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた後《のち》、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、穢血《えけつ》だとか、後天《こうてん》の食毒《しどく》だとかいって、諸家は各《おのおの》その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、偏僻《へんぺき》の治法を斥《しりぞ》けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。
その十六
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて京水《けいすい》に及ぶに当って、ここに京水の身上《しんしょう》に関する疑《うたがい》を記《しる》して、世の人の教《おしえ》を受けたい。
わたくしは今これを筆に上《のぼ》するに至るまでには、文書を捜り寺院を訪《と》い、また幾多の先輩知友を煩《わずら》わして解決を求めた。しかしそれは概《おおむ》ね皆|徒事《いたずらごと》であった。就中《なかんずく》憾《うらみ》とすべきは京水の墓の失踪《しっそう》した事である。
最初にわたくしに京水の
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