ちょう》九番地に住んでいて、家族は子婦《よめ》大槻《おおつき》氏よう、孫|女《むすめ》こうの二人《ふたり》であった。嗣子養真は父に先《さきだ》って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先|狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《かりやえきさい》の『倭名鈔箋註《わみょうしょうせんちゅう》』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が清国使館《しんこくしかん》において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
保は枳園の求《もとめ》に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、犬居《いぬい》に往《ゆ》き、掛塚《かけづか》から汽船|豊川丸《とよかわまる》に乗って帰京の途に就《つ》いた。そして航海中暴風に遭《あ》って、下田《しもだ》に淹留《えんりゅう》し、十二月十六日にようよう家に帰った。
机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の手書《しゅしょ》ではなくて、その訃音《ふいん》であった。
枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の終焉《しゅうえん》に当って、伊沢|徳《めぐむ》さんは枕辺《ちんぺん》に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次|柩《ひつぎ》を官衙《かんが》の前に駐《とど》めしめ、局員皆|出《い》でて礼拝した。枳園は音羽《おとわ》洞雲寺《どううんじ》の先塋《せんえい》に葬られたが、この寺は大正二年八月に巣鴨村《すがもむら》池袋《いけぶくろ》丸山《まるやま》千六百五番地に徙《うつ》された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、祥雲寺《しょううんじ》の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを大槻文彦《おおつきふみひこ》さんに問うて始《はじめ》て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を記《き》した新しい卒堵婆《そとば》が立ててあった。
枳園の後《のち》はその子養真の長女おこうさんが襲《つ》いだ。おこうさんは女流画家で、浅草|永住町《ながすみちょう》の上田|政次郎《まさじろう》という人の許《もと》に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]氏《きけつし》某に嫁し、後《のち》未亡人となって、浅草|聖天《しょうでん》横町の基督《クリスト》教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
保は枳園の訃《ふ》を得た後《のち》、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国|周智郡《すちごおり》犬居村《いぬいむら》百四十九番地に転籍した。保は病のために時々《じじ》卒倒することがあったので、松山|棟庵《とうあん》が勧めて都会の地を去らしめたのである。
その百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡|安西《あんざい》一丁目|南裏町《みなみうらまち》十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は藤波甚助《ふじなみじんすけ》という人で、雇《やとい》外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは山路愛山《やまじあいざん》さんである。通称は弥吉《やきち》、浅草|堀田原《ほったはら》、後には鳥越《とりごえ》に住んだ幕府の天文|方《かた》山路氏の裔《えい》で、元治《げんじ》元年に生れた。この年二十三歳であった。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族|佐野常三郎《さのつねさぶろう》の女《じょ》松を娶《めと》った。戸籍名は一《いち》である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日|生《うまれ》であるから十八歳であった。
小野|富穀《ふこく》の子道悦が、この年八月に虎列拉《コレラ》を病んで歿した。道悦は天保七年八月|朔《ついたち》に生れた。経書《けいしょ》を萩原楽亭《はぎわららくてい》に、筆札を平井東堂に、医術を多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者|奥通《おくどおり》に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは素読《そどく》の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生|主《おも
前へ
次へ
全112ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング