が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「只今《ただいま》帰りました」と、保はいった。
「お帰《かえり》かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ母《か》様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは今朝《けさ》は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
 午《ひる》になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに水貝《みずがい》を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては凌《しの》ぎ切れません。これから汐湯《しおゆ》に這入《はい》って、湖月《こげつ》に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも往《ゆ》くよ。」五百は遂に汐湯に入《い》って、湖月で飲食《のみくい》した。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では棠《とう》を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に遣《や》ったのは、意を決した上の事である。それゆえ能《よ》く年余《ねんよ》の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の難《かた》んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。

   その百五

 この年十二月二日に優《ゆたか》が本所相生町の家に歿した。優は職を罷《や》める時から心臓に故障があって、東京に還って清川玄道《きよかわげんどう》の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、午頃《ひるごろ》「ああ草臥《くたび》れた」といって仰臥《ぎょうが》したが、それきり起《た》たなかった。岡西氏|徳《とく》の生んだ、抽斎の次男は此《かく》の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
 優は蕩子《とうし》であった。しかし後《のち》に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、頗《すこぶ》る材能《さいのう》を見《あらわ》した。優は情誼《じょうぎ》に厚かった。親戚《しんせき》朋友《ほうゆう》のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札《ひっさつ》を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森|枳園《きえん》と優とを開拓者の中《うち》に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶《ひちょう》の名が署してあるが、優の未定稿である。
 抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
 五百は平生《へいぜい》病むことが少《すくな》かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹《かか》り、時々《じじ》疝痛《せんつう》を患《うれ》えた位のものである。特に明治九年還暦の後《のち》は、殆《ほとん》ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患《うれ》えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入《い》って見ると、五百の健康状態は好《よ》くなった。保は二月九日の夜《よ》母が天麩羅蕎麦《てんぷらそば》を食べて炬燵《こたつ》に当り、史を談じて更《こう》の闌《たけなわ》なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食《ごしょく》に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年|前《ぜん》からは子らの諌《いさめ》を納《い》れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草|店《みせ》へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫《しばら》くして五百は烟草を買って帰って、保の背後《うしろ》に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。初《はじめ》てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母《か》様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷《や》めずにいた。
 少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後《うしろ》を顧みた。
 五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾《かたぶ》けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が
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