に近づいた。準平は行燈を措《お》いて奥に入《い》った。引廻の男は尾《つ》いて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を蹴脱《けはず》して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の創《きず》を負って、庭の檜《ひのき》の下に殪《たお》れた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の夜《よ》、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから薪《たきぎ》に挽《ひ》かせようといっていたのである。家人は檜が讖《しん》をなしたなどといった。引廻の男は誰《たれ》であったか、また何故《なにゆえ》に準平を殺したか、終《つい》に知ることが出来なかった。
 保は報を得て、馳《は》せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※[#「にんべん+暴」、298−2]がいる。巡査数人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の内《うち》巡査を二人《ふたり》だけ附けて上げましょう」というのである。
 保は彼《か》の小結社の故を以て、刺客が手を動《うごか》したものとは信ぜなかった。しかし暫《しばら》くは人の勧《すすめ》に従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を填《こ》めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
 保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京|日々《にちにち》新聞』の福地桜痴《ふくちおうち》と論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
 普通選挙論では外山正一《とやましょういち》が福地に応援して、「毎日記者は盲目《めくら》蛇《へび》におじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を鈔出《しょうしゅつ》し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という鸚鵡返《おうむがえし》の報復をした。
 これらの論戦の後《のち》、保は島田三郎、沼間守一《ぬましゅいち》、肥塚龍《こえづかりゅう》らに識《し》られた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
 保は十二月九日学校の休暇を以て東京に入《い》った。実は国府《こふ》を去らんとする意があったのである。
 この年矢島|優《ゆたか》は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
 山田|脩《おさむ》はこの年|一月《いちげつ》工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

   その百四

 抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に入《い》って、仮に芝田町《しばたまち》一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で免罷《めんひ》の報に接した。一月十一日には攻玉社《こうぎょくしゃ》の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に往《ゆ》き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が近藤真琴《こんどうまこと》、幹事が藤田|潜《ひそむ》で、生徒中には後《のち》に海軍少将に至った秀島《ひでしま》某、海軍大佐に至った笠間直《かさまちょく》等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が小幡篤次郎《おばたとくじろう》、校長が浜野定四郎《はまのさだしろう》で、教師中に門野幾之進《かどのいくのしん》、鎌田栄吉《かまだえいきち》等があり、生徒中に池辺吉太郎《いけべきちたろう》、門野重九郎《かどのじゅうくろう》、和田豊治《わだとよじ》、日比翁助《ひびおうすけ》、伊吹雷太《いぶきらいた》等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は芝《しば》烏森町《からすもりちょう》一番地に家を借りて、四月五日に国府《こふ》から還《かえ》った母と水木《みき》とを迎えた。
 勝久は相生町《あいおいちょう》の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ優《ゆたか》が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を罷《や》めさせ、専《もっぱ》ら家政を掌《つかさど》らせた。
 八月中の事であった。保は客《かく》を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、一週日《いっしゅうじつ》ほどの間柳島の帆足謙三《ほあしけんぞう》というものの家に起臥《きが》していた。烏森町の家には水木を遺《のこ》して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母
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