十俵を給し、目見《めみえ》以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを慮《おもんばか》って、養子を求めた。
この時源吾の親戚《しんせき》に戸沢惟清《とざわいせい》というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は五百《いお》に説くに、山田の家世《かせい》の本《もと》卑《いやし》くなかったのと、東京|勤《づとめ》の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、後《のち》に弟御《おとうとご》さんが上京することになっても御都合が宜《よろ》しいでしょう」といった。成善《しげよし》は等を降《くだ》され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を雪《すす》ごうと思っていたからである。
戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾《かたぶ》けた。五百は戸沢の人《ひと》と為《な》りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は八十吉《やそきち》、信順《のぶゆき》在世の日の側役《そばやく》であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些《ちと》の学問さえあった。然るに酒を被《こうぶ》るときは剛愎《ごうふく》にして人を凌《しの》いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、用帑《ようど》匱《とぼ》しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
或時戸沢は公事を以て旅行した。物書《ものかき》松本甲子蔵《まつもときねぞう》がこれに随《したが》っていた。駕籠《かご》の中《うち》に坐した戸沢が、ふと側《かたわら》を歩く松本を見ると、草鞋《わらじ》の緒が足背《そくはい》を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を止《とど》まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は轎扉《きょうひ》に近づいた。戸沢は「ちと内用《ないよう》があるから遠慮いたせ」といって、供のものを遠《とおざ》け、松本に草鞋《わらじ》を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を著《つ》け、さて轎丁を呼んで舁《か》いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも識《し》っていた。戸沢の子|米太郎《よねたろう》、星野の子|金蔵《きんぞう》の二人はかつて保さんの教《おしえ》を受けたことがある。
戸沢の勧誘には、この年弘前に著《ちゃく》した比良野|貞固《さだかた》も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中《しゅうちゅう》にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した陸《くが》は、この年長男|万吉《まんきち》を生んだが、万吉は夭折して弘前|新寺町《しんてらまち》の報恩寺なる文内《ぶんない》が母の墓の傍《かたわら》に葬られた。
抽斎の六女|水木《みき》はこの年馬役|村田小吉《むらたこきち》の子|広太郎《ひろたろう》に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟《きんしつ》調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
小野氏ではこの年|富穀《ふこく》が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年|生《うまれ》で、三十五歳になっていた。
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽|承昭《つぐてる》は三之内《さんのうち》に遷《うつ》った。
その九十
抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善《しげよし》は母を弘前に遺《のこ》して、単身東京に往《ゆ》くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭《あ》って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後《のち》は旧に依《よ》って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑《うたがい》を避けんがためである。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已《すで》にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益《ますます》深くなるのであった。
成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師|兼松石居《かねまつせききょ》に謀《はか》った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は徐《しずか》にこれを待つことが出来なくなったのである。
さて成善は私費を以て往くことを敢《あえ》てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬ
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