のは、安積艮斎《あさかごんさい》にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。想《おも》うにその著述というのは『洋外紀略《ようがいきりゃく》』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、僅《わずか》に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を貰《もら》って翫《もてあそ》んだということを聞いた。それは出雲寺板《いずもじばん》の「大名《だいみょう》武鑑」で、鹵簿《ろぼ》の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「江戸鑑《えどかがみ》」と貼札《はりふだ》をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで散佚《さんいつ》せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『江戸鑑図目録《えどかんずもくろく》』の作られた縁起《えんぎ》を知ることを得たのである。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、箇条書《かじょうがき》にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは大礼《たいれい》に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、直《すぐ》に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから獲《え》た材料に拠るのである。

   その十

 渋江氏の祖先は下野《しもつけ》の大田原《おおたわら》家の臣であった。抽斎六世の祖を小左衛門《こざえもん》辰勝《しんしょう》という。大田原|政継《せいけい》、政増《せいそう》の二代に仕えて、正徳《しょうとく》元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子|重光《ちょうこう》は家を継いで、大田原政増、清勝《せいしょう》に仕え、二男|勝重《しょうちょう》は去って肥前《ひぜん》の大村《おおむら》家に仕え、三男|辰盛《しんせい》は奥州《おうしゅう》の津軽家に仕え、四男|勝郷《しょうきょう》は兵学者となった。大村には勝重の往《ゆ》く前に、源頼朝《みなもとのよりとも》時代から続いている渋江|公業《こうぎょう》の後裔《こうえい》がある。それと下野から往った渋江氏との関係の有無《ゆうむ》は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国|那須郡《なすごおり》大田原の城主たる宗家《そうか》ではなく、その支封《しほう》であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、清信《きよのぶ》、扶清《すけきよ》、友清《ともきよ》などの世であったはずである。大田原家は素《もと》一万二千四百石であったのに、寛文五年に備前守政清《びぜんのかみまさきよ》が主膳高清《しゅぜんたかきよ》に宗家を襲《つ》がせ、千石を割《さ》いて末家《ばつけ》を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今|手許《てもと》に末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を他人《たひと》といって、後|小三郎《こさぶろう》と改め、また喜六《きろく》と改めた。道陸《どうりく》は剃髪《ていはつ》してからの称である。医を今大路《いまおおじ》侍従|道三《どうさん》玄淵《げんえん》に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽|越中守《えっちゅうのかみ》信政《のぶまさ》に召し抱えられて、擬作金《ぎさくきん》三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は宝永《ほうえい》と改元せられた年である。師道三は故土佐守|信義《のぶよし》の五女を娶《めと》って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に随《したが》って津軽に往き、四年正月二十八日に知行《ちぎょう》二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守|信寿《のぶしげ》の世になっていた。辰盛は享保《きょうほう》十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。出羽守《でわのかみ》信著《のぶあき》の家を嗣《つ》いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を享《う》くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
 辰盛は兄重光の二男|輔之《ほし》を下野から迎え、養子として玄瑳《げんさ》と称《とな》えさせ、これに医学を授けた。即《すなわ
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