修信女、寛政四|壬子《じんし》八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻|登勢《とせ》である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、安永《あんえい》六年|丁酉《ていゆう》五月三日|死《しす》、享年十九、俗名千代、作臨終歌曰《りんじゅううたをつくりていわく》」云々《うんぬん》としてあるのは、登勢の生んだ本皓の女《むすめ》である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる女《むすめ》登勢に壻《むこ》を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に某々孩子《ぼうぼうがいし》と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六|世《せい》の祖|辰勝《しんしょう》が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖|辰盛《しんせい》が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻|比良野氏《ひらのうじ》が「※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]照院妙浄日法大姉」とし、同《おなじく》岡西《おかにし》氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった迹《あと》に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、香華《こうげ》を手向《たむ》けて置いて感応寺を出た。
 尋《つ》いでわたくしは保さんを訪《と》おうと思っていると、偶《たまたま》女《むすめ》杏奴《あんぬ》が病気になった。日々《にちにち》官衙《かんが》には通《かよ》ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために闕《か》くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその隙《ひま》に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。叔父《おじ》甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが船河原町《ふながわらちょう》へ往《ゆ》くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

   その九

 気候は寒くても、まだ炉を焚《た》く季節に入《い》らぬので、火の気《け》のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って倦《う》むことを知らなかった。
 今残っている勝久さんと保さんとの姉弟《あねおとうと》、それから終吉さんの父|脩《おさむ》、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、山内《やまのうち》氏|五百《いお》の生んだのである。勝久さんは名を陸《くが》という。抽斎が四十三、五百が三十二になった弘化《こうか》四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に本所《ほんじょ》へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
 終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。中《なか》三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。幸《さいわい》に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で恃《じ》を喪《うしな》ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から先考《せんこう》の平生《へいぜい》を聞くことを得たのである。
 抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした遺言《ゆいごん》によれば、経《けい》を海保漁村《かいほぎょそん》に、医を多紀安琢《たきあんたく》に、書を小島成斎《こじませいさい》に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て蘭語《らんご》を教えるが好《い》いといってある。抽斎は友人多紀|※[#「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》などと同じように、頗《すこぶ》るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を趁《お》う世俗と趨舎《すうしゃ》を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に市川小団次《いちかわこだんじ》の芸を「西洋」だといってある。これは褒《ほ》めたのではない。然《しか》るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言した
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