れが再び帰らぬ旅路であった。
勝久は家元を送って四日の後に病に臥《ふ》した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を遣《や》って、勝三郎の房州から鎌倉へ遷《うつ》ったことを聞いた。
九月十一日は小雨《こさめ》の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が革《すみやか》だと報じて来た。勝久は腰部の拘攣《こうれん》のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく戦慄《せんりつ》して已《や》まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの夕《ゆうべ》に世を去った。年は三十八であった。法諡《ほうし》を蓮生院薫誉智才信士《れんしょういんくんよちさいしんし》という。
その百十八
九月十二日に勝久は三世勝二郎の柩《ひつぎ》を荼※[#「田+比」、第3水準1−86−44]所《だびしょ》まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した後《のち》に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ障礙《しょうがい》がある。それは勝三郎の生前《しょうぜん》に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、宥《ゆる》されずにしまった高足弟子《こうそくていし》勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、須臾《しゅゆ》もこれを忘れることが出来なかった。
十三日の昧爽《まいそう》に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし御聞込《おんききこみ》の事とは存じ候《そうら》へども、杵屋|御《おん》家元様は御《ご》死去|被遊候《あそばされそろ》。夫《それ》に付《つき》私共は今日《こんにち》午後四時|御《ご》同所に相寄候事《あいよりそろこと》に御坐候。此《この》際|御《おん》前様御心底は奈何《いかが》に候|哉《や》。私存じ候には、同刻御自身の思召《おぼしめし》にて馬喰町へ御出被成候方宜敷《おんいでなされそろかたよろしく》候様存じ候。田原町《たわらちょう》へ一寸《ちょっと》御立寄被成候《おんたちよりなされそうろう》て御出被成度《おんいでなされたく》存じ候。さ候はゞ及ばずながら奈何様《いかよう》にも御《ご》都合
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