することを命ぜられて、十万石に進み、従《じゅ》四位|下《げ》に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が啓沃《けいよく》の功も少くなかったらしい。
 允成は文政五年八月|朔《さく》に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌|俳諧《はいかい》を銷遣《しょうけん》の具とし、歌会には成島司直《なるしましちょく》などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は天保《てんぽう》二年六月からは、出羽国|亀田《かめだ》の城主|岩城《いわき》伊予守《いよのかみ》隆喜《たかひろ》に嫁した信順《のぶゆき》の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室|欽姫附《かねひめづき》を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年[#「八年」は底本では「八月」]十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻|縫《ぬい》は、文政七年七月朔に剃髪して寿松《じゅしょう》といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に先《さきだ》つこと八年である。

   その十二

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと保《たもつ》さんがいう。これは母|五百《いお》の話を記憶しているのであろう。父|允成《ただしげ》は四十二歳、母|縫《ぬい》は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の江戸分間大絵図《えどぶんけんおおえず》というものを閲《けみ》するに、和泉橋《いずみばし》と新橋《あたらしばし》との間の柳原通《やなぎはらどおり》の少し南に寄って、西から東へ、お玉《たま》が池《いけ》、松枝町《まつえだちょう》、弁慶橋、元柳原町《もとやなぎはらちょう》、佐久間町《さくまちょう》、四間町《しけんちょう》、大和町《やまとちょう》、豊島町《としまちょう》という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ偏《かたよ》って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の東隣《ひがしどなり》の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが富士川游《ふじかわゆう》さんに借りた津軽家の医官の宿直日記
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