附いて、急に起《た》って傍《かたわら》に往き顔を覗《のぞ》いた。
五百の目は直視し、口角《こうかく》からは涎《よだれ》が流れていた。
保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
五百は「ああ」と一声答えたが、人事を省《せい》せざるものの如くであった。
保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の許《もと》へ走った。
その百六
渋江氏の住んでいた烏森の家からは、存生堂《ぞんせいどう》という松山|棟庵《とうあん》の出張所が最も近かった。出張所には片倉《かたくら》某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で右半身不随《ゆうはんしんふずい》になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の望《のぞみ》はありません」といった。
しかし保はその言《こと》を信じたくなかった。一時|空《くう》を視《み》ていた母が今は人の面《おもて》に注目する。人が去れば目送する。枕辺《ちんぺん》に置いてあるハンカチイフを左手《さしゅ》に把《と》って畳む。保が傍《そば》に寄るごとに、左手で保の胸を撫《な》でさえした。
保は更に印東玄得《いんどうげんとく》をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
五百の晩年の生活は日々《にちにち》印刷したように同じであった。祁寒《きかん》の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、手水《ちょうず》を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから午餐《ごさん》の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。夕餉《ゆうげ》は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。倦《う》めば保を呼んで棋《ご》を囲みなどすることもある。寝《しん》に就くのは十時である。
隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度|詣《もう》で、親と夫との忌日《きにち》には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで廃せなかった。そ
前へ
次へ
全223ページ中199ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング