》を見《あらわ》した。優は情誼《じょうぎ》に厚かった。親戚《しんせき》朋友《ほうゆう》のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は筆札《ひっさつ》を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森|枳園《きえん》と優とを開拓者の中《うち》に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は飛蝶《ひちょう》の名が署してあるが、優の未定稿である。
抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
五百は平生《へいぜい》病むことが少《すくな》かった。抽斎歿後に一たび眼病に罹《かか》り、時々《じじ》疝痛《せんつう》を患《うれ》えた位のものである。特に明治九年還暦の後《のち》は、殆《ほとん》ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを患《うれ》えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に入《い》って見ると、五百の健康状態は好《よ》くなった。保は二月九日の夜《よ》母が天麩羅蕎麦《てんぷらそば》を食べて炬燵《こたつ》に当り、史を談じて更《こう》の闌《たけなわ》なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも午食《ごしょく》に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年|前《ぜん》からは子らの諌《いさめ》を納《い》れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草|店《みせ》へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。暫《しばら》くして五百は烟草を買って帰って、保の背後《うしろ》に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。初《はじめ》てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ母《か》様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を罷《や》めずにいた。
少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって背後《うしろ》を顧みた。
五百は火鉢の前に坐って、やや首を傾《かたぶ》けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が
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