た》とが反対した。その主《おも》なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭《ぬぐ》うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入《い》った。
その九十八
矢島|優《ゆたか》はこの年八月二十七日に少属《しょうさかん》に陞《のぼ》ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、芝琴平町《しばことひらちょう》に来《きた》り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は後《のち》明治十七年十月十九日に歿した。天保十年|生《うまれ》であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌《しぼう》があったが、痘を病んで容《かたち》を毀《やぶ》られた。医学館に学び、また抽斎、枳園《きえん》の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の後《のち》に書して、「余少時曾在先生之門《よわかいときかつてせんせいのもんにあり》、能知其為人《よくそのひととなりと》、且学之広博《がくのこうはくをしる》、因窃録先生之言行及字学医学之諸説《よりてひそかにせんせいのげんこうおよびじがくいがくのしょせつをろくし》、別為小冊子《べつにしょうさっしとなす》」といっている。わたくしはその書の存否を審《つまびらか》にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女《むすめ》梅を娶《めと》ったが、後これを離別して、陸奥国《むつのくに》磐城平《いわきだいら》の城主安藤家の臣後藤氏の女《じょ》いつを後妻に納《い》れた。いつは二子を生んだ。長男|俊太郎《しゅんたろう》さんは、今|本郷西片町《ほんごうにしかたまち》に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男|篤次郎《とくじろう》さんは風間《かざま》氏を冒して、小石川宮下町《こいしかわみやしたちょう》に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
陸《くが》はこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店《さとうみせ》を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
次で陸は本所《ほんじょ》亀沢町《かめざわちょう》に看板を懸けて杵屋勝久《きねやかつひさ》と称し、長唄《ながうた》の師匠をすることになった。
矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷《うつ》った。周禎は霊岸島《
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