る。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子|文平《ぶんぺい》さんがその後《のち》を襲《つ》いだ。

   その九十四

 五百《いお》は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、陸《くが》の夫妻|並《ならび》に村田氏から帰った水木《みき》の三人と倶《とも》に、本所横網町の鈴木方に行李《こうり》を卸した。弘前からの同行者は武田代次郎《たけだだいじろう》というものであった。代次郎は勘定奉行武田|準左衛門《じゅんざえもん》の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽|信順《のぶゆき》の下《しも》で笠原近江《かさはらおうみ》が政《まつりごと》を擅《ほしいまま》にした時の事である。
 五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、優《ゆたか》は浦和から母に逢いに来た。
 三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に権少属《ごんしょうさかん》になって、月給|僅《わずか》に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には二人《ふたり》の食客があった。一人《ひとり》は妻《さい》蝶の弟|大沢正《おおさわせい》である。今一人は生母|徳《とく》の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の胞衣《えな》を服用したという癲癇《てんかん》病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を更《あらた》めて岡寛斎《おかかんさい》といっていた。優が登庁すると、その使役する給仕《きゅうじ》は故旧|中田《なかだ》某の子|敬三郎《けいざぶろう》である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本|甲子蔵《きねぞう》がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田|健三《けんぞう》、かつて渋江氏の若党たりし中条|勝次郎《かつじろう》、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の清浦子《きようらし》が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が与《あずか》って力があったとかで、「矢島先生|奎吾《けいご》」と書した尺牘《せきどく》数通《すつう》が遺《のこ》っている。一時優の救援に藉《よ》って衣食するもの数十人の衆《おお》きに至ったそうで
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