に保が山田脩の家から本所|横網町《よこあみちょう》の鈴木きよ方の二階へ徙《うつ》った。鈴木は初め船宿《ふなやど》であったが、主人が死んでから、未亡人きよが席貸《せきがし》をすることになった。きよは天保元年|生《うまれ》で、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで音信《いんしん》を断たなかった。これより先《さき》保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者に諮《はか》ること数次であった。しかし津軽|承昭《つぐてる》の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の詔《みことのり》が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた頗《すこぶ》る革《あらた》まったので、保はまた当路者に諮《はか》った。当路者は復《また》五百の東京に入《い》ることを阻止しようとはしなかった。唯《ただ》保が一諸生を以て母を養わんとするのが怪《あやし》むべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。五百《いお》はようよう弘前から東京に来ることになった。
保が東京に遊学した後《のち》の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩|前《ぜん》に、弘前|俎林《まないたばやし》の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は浅越玄隆《あさごえげんりゅう》が五百の委託によって処理した。
五百が弘前を去る時、村田広太郎の許《もと》から帰った水木《みき》を伴わなくてはならぬことは勿論《もちろん》であった。その外|陸《くが》もまた夫矢川文一郎と倶《とも》に五百に附いて東京へ往くことになった。
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の用達《ようたし》商人|工藤忠五郎蕃寛《くどうちゅうごろうはんかん》の次男|蕃徳《はんとく》を養子にして弘前に遺《のこ》した。蕃寛には二子二女があった。長男|可次《よしつぐ》は森甚平《もりじんぺい》の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お連《れん》さんは蕃寛の後《のち》を継いで、現に弘前の下白銀町《しもしろかねちょう》に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは岩川《いわかわ》氏|友弥《ともや》さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いてい
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