た。
 成善が弘前で暇乞《いとまごい》に廻った家々の中で、最も別《わかれ》を惜《おし》んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は左※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]下《さがくか》に瘤《こぶ》を生じたので、自ら瘤翁《りゅうおう》と号していたが、別に臨んで、もう再会は覚束《おぼつか》ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は塩分町《しおわけちょう》の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏|神保町《じんぼうちょう》に住んで、琴の師匠をしている平井|松野《まつの》さんがこのとめである。

   その九十一

 成善《しげよし》は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母|五百《いお》と水杯《みずさかずき》を酌《く》み交して別れ、駕籠《かご》に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時|始《はじめ》て親子の別《わかれ》の悲しさを知って、轎中《きょうちゅう》で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
 同行者は松本|甲子蔵《きねぞう》であった。甲子蔵は後に忠章《ちゅうしょう》と改称した。父を庄兵衛《しょうべえ》といって、素《もと》比良野|貞固《さだかた》の父文蔵の若党であった。文蔵はその樸直《ぼくちょく》なのを愛して、津軽家に薦《すす》めて足軽《あしがる》にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の史生《しせい》に任用せられていたのである。
 弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を酌《く》んで別れる習《ならい》であった。成善を送るものは、句読《くとう》を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、服部善吉《はっとりぜんきち》、菱川太郎《ひしかわたろう》などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、二人《ににん》共に已《すで》に世を去った。
 成善は四月七日に東京に着いた。行李《こうり》を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ間《ま》に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽|承昭《つぐてる》の本所横川に設け
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