ゃく》した比良野|貞固《さだかた》も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお舟中《しゅうちゅう》にある間に病歿した。
矢川文一郎に嫁した陸《くが》は、この年長男|万吉《まんきち》を生んだが、万吉は夭折して弘前|新寺町《しんてらまち》の報恩寺なる文内《ぶんない》が母の墓の傍《かたわら》に葬られた。
抽斎の六女|水木《みき》はこの年馬役|村田小吉《むらたこきち》の子|広太郎《ひろたろう》に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が琴瑟《きんしつ》調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
小野氏ではこの年|富穀《ふこく》が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年|生《うまれ》で、三十五歳になっていた。
中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽|承昭《つぐてる》は三之内《さんのうち》に遷《うつ》った。
その九十
抽斎歿後の第十三年は明治四年である。成善《しげよし》は母を弘前に遺《のこ》して、単身東京に往《ゆ》くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に遭《あ》って不平に堪えなかったからである。二には減禄の後《のち》は旧に依《よ》って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の疑《うたがい》を避けんがためである。
弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は已《すで》にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は益《ますます》深くなるのであった。
成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師|兼松石居《かねまつせききょ》に謀《はか》った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は徐《しずか》にこれを待つことが出来なくなったのである。
さて成善は私費を以て往くことを敢《あえ》てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬ
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