るので、妙了は韮山へ往った。
四月|朔《さく》に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち退《の》いて、本所|横川《よこかわ》の津軽家の中屋敷に徙《うつ》った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
一行《いっこう》は戸主成善十二歳、母|五百《いお》五十三歳、陸《くが》二十二歳、水木《みき》十六歳、専六《せんろく》十五歳、矢島|優善《やすよし》三十四歳の六人と若党|二人《ににん》とである。若党の一人《ひとり》は岩崎|駒五郎《こまごろう》という弘前のもので、今一人は中条勝次郎《ちゅうじょうかつじろう》という常陸国《ひたちのくに》土浦《つちうら》のものである。
同行者は矢川文一郎《やかわぶんいちろう》と浅越一家《あさごえいっけ》とである。文一郎は七年|前《ぜん》の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の鉄物問屋《かなものどいや》平野屋の女《むすめ》柳を娶《めと》って、男子《なんし》を一人もうけていたが、弘前|行《ゆき》の事が極《き》まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
浅越一家は主人夫婦と女《むすめ》とで、若党一人を連れていた。主人は通称を玄隆《げんりゅう》といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少《わか》い時|不行迹《ふぎょうせき》のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期《まつご》養子として後《のち》を承《う》け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入《い》った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と親《したし》んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女《むすめ》ふくは当歳である。
ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを記《き》するに当って、当時の社会が今と殊《こと》なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論《もちろん》であるが、出入《でいり》の職人|商人《あきうど》もまた情誼《じょうぎ》が頗《すこぶ》る厚かった。渋江の家に出入《いでいり》する中で、職人には飾屋長八《かざりやちょうはち》というものがあり、商人には鮓屋久次郎《すしやきゅうじろう》というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時|墓木《ぼぼく》拱《きょう
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