くにがって》の議が、この時に及んで纔《わずか》に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する群《むれ》には入《い》らなかった。
抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島|優善《やすよし》は本所緑町の家を引き払って、武蔵国|北足立郡《きたあだちごおり》川口《かわぐち》に移り住んだ。知人《しるひと》があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、僅《わずか》の間《あいだ》である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
比良野貞固の家では、この年|後妻《こうさい》照が柳《りゅう》という女《むすめ》を生んだ。
第十年は明治元年である。伏見《ふしみ》、鳥羽《とば》の戦《たたかい》を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の余力《よりょく》が、春より秋に至る間に漸《ようや》く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川|慶喜《よしのぶ》が上野寛永寺に入《い》った後《のち》に、江戸を引き上げた弘前藩の定府《じょうふ》の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の価《あたい》は二十四文であった。庭に定所《ていしょ》、抽斎父子の遺愛の木たる※[#「木+聖」、第3水準1−86−19]柳《ていりゅう》がある。神田の火に逢って、幹の二大枝《にだいし》に岐《わか》れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ徙《うつ》されて、幸《さいわい》に凋《しお》れなかった木である。また山内豊覚が遺言《いげん》して五百に贈った石燈籠《いしどうろう》がある。五百も成善《しげよし》も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も難《かた》んずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを奈何《いかん》ともすることが出来なかった。
食客は江戸|若《もし》くはその界隈《かいわい》に寄るべき親族を求めて去った。奴婢《ぬひ》は、弘前に随《したが》い行《ゆ》くべき若党二人を除く外、悉《ことごと》く暇《いとま》を取った。こういう時に、年老いたる男女の往《ゆ》いて投ずべき家のない
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