。いずれ篤《とく》と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を起《た》って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は優善《やすよし》を呼んで厳《おこそか》に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
翌朝五百は貞固を訪《と》うて懇談した。大要はこうである。昨日《さくじつ》の仰《おおせ》は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの行掛《ゆきがか》りを思えば、優善にこの上どうして罪を贖《あがな》わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、金毘羅《こんぴら》に起請文《きしょうもん》を納めさせたい。悔い改める望《のぞみ》のない男であるから、必ず冥々《めいめい》の裏《うち》に神罰を蒙《こうむ》るであろうというのである。
貞固はつくづく聞いて答えた。それは好《よ》いお思附《おもいつき》である。この度の事については、命乞《いのちごい》の仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい死様《しにざま》をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。
その七十五
五百《いお》は矢島|優善《やすよし》に起請文を書かせた。そしてそれを持って虎《とら》の門《もん》の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が行末《ゆくすえ》の事を祈念して帰った。
小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居|令図《れいと》が八十歳で歿した。五年|前《ぜん》に致仕して富穀《ふこく》に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の貯《たくわ》えたのが一万両を超えていたそうである。
伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉|水木《みき》と長唄の「老松《おいまつ》」を歌った。柴田常庵《しばたじょうあん》という肥え太った医師は、越中褌《えっちゅうふんどし》一つを身に着けたばかりで、「棚の達
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