ど必ず捺《お》してある。
 別号には観柳書屋、柳原《りゅうげん》書屋、三亦堂《さんえきどう》、目耕肘《もくこうちゅう》書斎、今未是翁《こんみぜおう》、不求甚解《ふきゅうじんかい》翁等がある。その三世|劇神仙《げきしんせん》と称したことは、既にいったとおりである。
 抽斎はかつて自ら法諡《ほうし》を撰んだ。容安院《ようあんいん》不求甚解居士《ふきゅうじんかいこじ》というのである。この字面《じめん》は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻|五百《いお》のために撰んだ法諡は妙|極《きわ》まっている。半千院《はんせんいん》出藍終葛大姉《しゅつらんしゅうかつだいし》というのである。半千は五百、出藍は紺屋町《こんやちょう》に生れたこと、終葛は葛飾郡《かつしかごおり》で死ぬることである。しかし世事《せいじ》の転変は逆覩《げきと》すべからざるもので、五百は本所《ほんじょ》で死ぬることを得なかった。
 この二つの法諡はいずれも石に彫《え》られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の墓穴《ぼけつ》に合葬せられたからである。
 大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を景仰《けいこう》するものは、その苗裔《びょうえい》がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を記《しる》し畢《おわ》ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより下《しも》に書き附けて置こうと思う。
 わたくしはこの記事を作るに許多《あまた》の障礙《しょうがい》のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが漸《ようや》く多くなるに従って、忌諱《きき》すべき事に撞着《とうちゃく》することもまた漸く頻《しきり》なることを免れぬからである。この障礙は上《かみ》に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に頭《こうべ》を擡《もたげ》げて来た。これから後《のち》は、これが弥《いよいよ》筆端に纏繞《てんじょう》して、厭《いと》うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を完《まっと》うするつもりである。
 渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、陸《くが》、水木《みき》
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