歳、五百《いお》三十八歳の時である。
この年二月二十六日に、堀川|舟庵《しゅうあん》が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の中《うち》森枳園が一人残された。
安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男|専六《せんろく》が生れた。後に脩《おさむ》と名告《なの》った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は子婦《しふ》糸の父田口儀三郎の窮を憫《あわれ》んで、百両余の金を餽《おく》り、糸をば有馬宗智《ありまそうち》というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、年《とし》に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻|手伝《てつだい》を仰附けられた。今度校刻すべき書は、円融《えんゆう》天皇の天元《てんげん》五年に、丹波康頼《たんばやすより》が撰んだという『医心方《いしんほう》』である。
保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から厳《おごそか》に秘せられていた書が、忽《たちま》ち目前に出て来た状《さま》が、この語で好く表《あらわ》されている。「秘玉突然開※[#「木+賣」、第4水準2−15−72]出《ひぎょくとつぜんはこをひらきていづ》。瑩光明徹点瑕無《えいこうめいてつてんかなし》。金龍山畔波濤起《きんりょうさんはんはとうおこり》。龍口初探是此珠《りょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま》。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時|喜《よろこび》を記した詩である。龍口《りょうこう》といったのは、『医心方』が若年寄《わかどしより》遠藤但馬守|胤統《たねのり》の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は辰口《たつのくち》の北角《きたかど》であった。
その四十四
日本の古医書は『続群書類従《ぞくぐんしょるいじゅう》』に収めてある和気広世《わけひろよ》の『薬経太素《やくけいたいそ》』、丹波康頼《たんばのやすより》の『康頼本草《やすよりほんぞう》』、釈蓮基《しゃくれんき》の『長生《ちょうせい》療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁《ふかねすけひと》の『本草和名《ほんぞうわみょう》』、丹波|雅忠《まさただ》の『医略抄』、宝永中に印行《いんこう》せられた具平親王《ともひらしんのう》の『弘決外典抄《ぐけつげてんしょう》』の数種を存す
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