肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし保《たもつ》さんは少時帆足の文を読むごとに心|平《たいら》かなることを得なかったという。それは貞固の人《ひと》と為《な》りを愛していたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた棠子《とうこ》が、痘を病んで死んだ。尋《つ》いで十五日に、五女|癸巳《きし》が感染して死んだ。彼は七歳、此《これ》は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子|恒善《つねよし》が二十六歳で、柳島に隠居していた信順《のぶゆき》の近習《きんじゅ》にせられた。六月十二日に、二子|優善《やすよし》が十七歳で、二百石八人扶持の矢島玄碩《やじまげんせき》の末期養子《まつごようし》になった。この年渋江氏は本所|台所町《だいどころちょう》に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は渋江一族の例を破って、少《わこ》うして烟草《タバコ》を喫《の》み、好んで紛華奢靡《ふんかしゃび》の地に足を容《い》れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に傾《かたぶ》きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町《こいずみちょう》で、屋敷は当時の切絵図《きりえず》に載せてある。
その四十三
嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵|田口儀三郎《たぐちぎさぶろう》の養女|糸《いと》を娶《めと》った。五月十八日に、恒善に勤料《つとめりょう》三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の交《まじわり》は頗《すこぶ》る親しかった。楷書《かいしょ》に片仮名を交《ま》ぜた榛軒の尺牘《せきどく》には、宛名《あてな》が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な構《かまえ》であった。庭には吉野桜《よしのざくら》八|株《しゅ》を栽《う》え、花の頃には親戚《しんせき》知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の妻《さい》飯田氏しほと女《むすめ》かえと
前へ
次へ
全223ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング