のである。
貞固《さだかた》は謹んで聴《き》いていた。そして抽斎が「子曰《しのたまわく》、噫斗※[#「霄」の「雨かんむり」に代えて「竹かんむり」、第3水準1−89−66]之人《ああとしょうのひと》、何足算也《なんぞかぞうるにたらん》」に説き到《いた》ったとき、貞固の目はかがやいた。
講じ畢《おわ》った後《のち》、貞固は暫《しばら》く瞑目《めいもく》沈思していたが、徐《しずか》に起《た》って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは今日《こんにち》から一命を賭《と》して職務のために尽します。」貞固の目には涙が湛《たた》えられていた。
抽斎はこの日に比良野の家から帰って、五百《いお》に「比良野は実に立派な侍《さむらい》だ」といったそうである。その声は震《ふるい》を帯びていたと、後に五百が話した。
留守居になってからの貞固は、毎朝《まいちょう》日の出《いず》ると共に起きた。そして先ず厩《うまや》を見廻った。そこには愛馬|浜風《はまかぜ》が繋《つな》いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は生死《しょうし》を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、盥嗽《かんそう》して仏壇の前に坐した。そして木魚《もくぎょ》を敲《たた》いて誦経《じゅきょう》した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が畢《おわ》って、髪を結わせた。それから朝餉《あさげ》の饌《ぜん》に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》には選嫌《えりぎらい》をしなかったが、のだ平《へい》の蒲鉾《かまぼこ》を嗜《たし》んで、闕《か》かさずに出させた。これは贅沢品《ぜいたくひん》で、鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》が二百文、天麩羅蕎麦《てんぷらそば》が三十二文、盛掛《もりかけ》が十六文するとき、一板《ひといた》二分二朱であった。
朝餉《あさげ》の畢《おわ》る比《ころ》には、藩邸で巳《み》の刻の大鼓《たいこ》が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓《やぐら》大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴《きか》ずに、とうとう上屋敷を隅田川《すみだがわ》の東に徙《うつ》されたのだと、巷説《こうせつ》に言い伝え
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