しやがんだりする度に咳が出る。それを自分の壊れる兆だと思ふのである。そんなことをいつでも思つてゐるので、夜寐られなくなる。それを死の前兆だと思ふ。
 丁度昨晩も少しも寐られなかつた。そこで頭のなかは、重くろしい、煙のやうな、酒の酔《ゑひ》のやうな状態になつてゐる。一晩寐られもしないのに、温い、ねばねばした床の中に横はつてゐて、近所の癲狂患者の泣いたり、笑つたりする声の聞えるのを聞いてゐるうちに、頭の中に浮んで来た考へは実に気味が悪かつた。そこであちこち寝返りをして、自分から自分を逃げ出させようとした。自分が壊れるのなんのといふことを、ちつとも知つてはゐないと思つて見ようとしたが、それが出来なかつた。彼《か》の思想が消えれば、此思想が出て来る。それが寝室の白壁の上にはつきり見えて来る。しまひにはどうしても、丁度自分の忘れようと思ふことを考へなくてはならないやうになつて来る。殆ど上手のかく絵のやうに、空想の中に、分壊作用がはつきりと画かれる。体を腐らせて汁の出るやうにする作用が画かれる。自分の体の膿《うみ》を吸つて太つた蛆《うじ》の白いのがうようよ動いてゐるのが見える。学士は平生から爬《は
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