ある。己の自我の中には万物が位を占めてゐる。その上に己は苦をも受けてゐるのだ。そこでその湊合がなんだ。馬鹿な。湊合なんといふ奴が己になんになるものか。只昔あつた事物の繰り返しに過ぎないといふことは、考へて見ても溜まらないわけだ。」
学士は未来世《みらいせい》に出て来る筈の想像的人物、自分と全く同じである筈の想像的人物を思ひ浮べて見て、それをひどく憎んだ。
「そいつはきつと出て来るに違ひない。人間の思想でさへ繰り返されるではないか。人間そのものも繰り返されるに違ひない。それに己の思想、己の苦痛はどうでも好いのだ。なぜといふに己以外の物体の幾百万かがそれを同じやうに考へたり、感じたりするからである。難有いしあはせだ。勝手にしやがれ。」
学士の心理的状態は一日一日と悪くなつた。夜になると、それが幻視錯覚になつて、とうとうしまひには魘夢《えんむ》になつて身を苦しめる。死や、葬《とぶらひ》や、墓の下の夢ばかり見る。たまにはいつもと違つて、生きながら埋められた夢を見る。昼の間は只一つの写象に支配せられてゐる。それは「己は壊れる」といふ写象である。病院の梯子段を昇れば息が切れる。立ち上がつたり、
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