一説を挙げよう。それはドイツの学者リンド氏の説で、イギリスの学者ビイフ氏の説も略《ほゞ》それと一致してゐる。それはかうである。スピイスは槍である。ブルクは城である。あの市で城らしい建物と云つては、議事堂が一棟しか無いが、その議事堂の塔に或る時雷が落ちた。その落ち工合が丁度上から槍で衝いたやうであつたことを思ふと、此語源説が愈《いよ/\》尤《もつとも》らしく聞えて来る。併しこんな重大な問題にうかと断案を下して、跡で恥を掻きたくもないから、己はなんとも言はずに置かう。読者が若し此問題を深く研究しようと思ふなら、有名なオランダの大学教授ホオルコツプ氏のオラチウンクレエ・デ・レエブス・プレテリチスと云ふ本を見るが好からう。それから今一つ参考して好い本は、フアン・デル・ドムヘエト氏のデ・デレワチオニブスの二十七ペエジから五千零十ペエジ迄である。此本は大判の紙にゴチツクで印刷してあつて、骨子になつてゐる語には朱と墨とで標《しるし》がしてある。丁附は無い。此本にはフアン・デル・ドムヘエト氏の高足弟子として聞えた支那の民間学者シユツンプジン氏の自筆の書入があるから、それも参考するが好い。又註脚に大学助教授ドヨオジヒ氏の言つてゐることは一顧に値する。
 創立の時代も地名の起原も、こんなに不確実ではあるが、兎に角スピイスブルクは昔出来た日から今目撃する状況と少しも変つてゐなかつたと云ふことは明白である。市の故老に聞いて見ると、何一つ変つたと思ふことは無いさうだ。実際若しや変つた所がありはせぬかと云ふ問題でからが、それを口に出したら、あの土地の人は侮辱せられたやうに感ずるだらう。
 市は正円形をなした谷の中央に位してゐる。谷の周囲は一|哩《マイル》の四分の一位である。四方には景色の好い丘陵がある。市に住んでゐる人に、誰一人敢て丘陵の巓《いたゞき》に登つたものが無い。さう云ふ堅固な土着的観念が何に本づいてゐるかと云ふと、実に尤千万な理由がある。丘陵より先きに何物かが有るだらうと云ふことは、到底信ぜられないからだと云ふのである。
 谷は総て平坦で、全面に平たい瓦が敷き詰めてある。此平地の外囲に円形をなして六十軒の家が立ててある。それだから家は皆丘陵を負うて、平地の中央に臨んでゐる。その中央の地点までの距離は、どの家の戸口から測つても六十|呎《フイイト》ある。どの家の前にも円形に道を附けた、小
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