に懐中時計を隠しに入れた。
 然るに大時計はまだこれでは罷《や》めない。「十三」と大時計は云つた。
「やあ」と爺いさん達はうめくやうに云つて、鯉が水面に浮いて風を呑むやうな口附きをして、顔の色が蒼くなつて、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑つた。
「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
 これから後に起つたスピイスブルク市の恐ろしい出来事を筆で書かうと思つても、それは不可能である。兎に角市を挙げて大騒乱の渦中に陥つたと云ふより外はない。
 子供は異口同音に云つた。「おいらの時計はどうしたと云ふのだらう。おいらは一時間も前からお午が食べたくてならない。」
 お神さん達は云つた。「まあ、わたしの鍋はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前から豚もキヤベツも煮えくり返つてゐる。」
 爺いさん達は云つた。「己の煙管はどうしたと云ふのだらう。もう一時間も前に吸殻になつてゐなくちやならんのだ。」かう云つて爺いさん達は腹立たしげに煙管を詰め更へて、腕附の椅子に倚り掛かつて、忙がしげに煙を吹き出した。スピイスブルク市は忽ち煙草の煙に包まれて何も見えなくなつてしまつた。
 その時市の菜園に作つてあるキヤベツの頭が、皆腹を立てたやうに真つ赤になつた。それから矢張外道奴の所作と見えて、家々の道具に為込んである時計や置時計が魔法で踊らせるやうに踊り出した。炉の上の棚にある時計も腹が立つて溜まらないと云ふ様子で、十三時を繰り返し繰り返し打ちながら、下振《さげふ》りをめちやめちやに振り廻した。それから猫や豚が、尻つぽに括り付けてある時計の十三時を打つのが不都合だと心得たものか皆駆け出して、きいきい、にやあにやあ啼きながら、そこら中を引つ掻いて、何もかも蹴飛ばして、人の顔に飛び付いたり、着物の裾にこんがらかつたりした。なんともかとも云はれない大騒乱である。
 それに塔の上にゐるいたづら者奴は却つてわざと此騒乱を大きくしようとしてゐるらしい。折々煙草の煙の隙間から仰向いて見ると、いたづら者は番人を仰向けに寝させて、その上に乗つて、大時計の上に吊つてある吊鐘の綱を口に銜へて、頭を右左に振りながら鐘を鳴らしてゐる。あの時の事を思ひ出すと、己は今でも耳が鳴る。いたづら者奴、鐘が鳴るばかりでは足りないと見えて、膝の上に大きなヰオリンを置いて、間拍子に構はず、「ねえ、テレザさん、降りてお出で」と云
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