見た川の上手《かみて》を和江《わえ》という所まで往って、首尾よく人に見つけられずに、向う河岸へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていたお寺にはいって隠しておもらい。しばらくあそこに隠れていて、討手が帰って来たあとで、寺を逃げておいで」
「でもお寺の坊さんが隠しておいてくれるでしょうか」
「さあ、それが運験《うんだめ》しだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。姉えさんのきょうおっしゃることは、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。わたしは考えをきめました。なんでも姉えさんのおっしゃる通りにします」
「おう、よく聴いておくれだ。坊さんはよい人で、きっとお前を隠してくれます」
「そうです。わたしにもそうらしく思われて来ました。逃げて都へも往かれます。お父うさまやお母あさまにも逢われます。姉えさんのお迎えにも来られます」厨子王の目が姉と同じようにかがやいて来た。
「さあ、麓まで一しょに行くから、早くおいで」
 二人は急いで山を降りた。足の運びも前とは違って、姉の熱した心持ちが、暗示のように弟に移って行ったかと思われる。
 泉の湧《わ》く所へ来た。姉は※[#「木+累」、第3水準1−86−7]子《かれいけ》に添えてある木の椀《まり》を出して、清水を汲んだ。「これがお前の門出《かどで》を祝うお酒だよ」こう言って一口飲んで弟にさした。
 弟は椀《まり》を飲み干した。「そんなら姉えさん、ご機嫌よう。きっと人に見つからずに、中山まで参ります」
 厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川の岸を上手へ向かって急ぐのである。
 安寿は泉の畔《ほとり》に立って、並木の松に隠れてはまた現われる後ろ影を小さくなるまで見送った。そして日はようやく午《ひる》に近づくのに、山に登ろうともしない。幸いにきょうはこの方角の山で木を樵《こ》る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見とがめるものもなかった。
 のちに同胞《はらから》を捜しに出た、山椒大夫一家の討手が、この坂の下の沼の端《はた》で、小さい藁履《わらぐつ》を一|足《そく》拾った。それは安寿の履《くつ》であった。

     ――――――――――――

 中山の国分寺《こくぶじ》の三門に、松明《たいまつ》の火影が乱れて、大勢の人が籠《こ》み入って来る。先に立ったのは、白柄《しらつか》の薙刀《なぎなた》を手挾《たはさ》んだ、山椒大夫の息子三郎である。
 三郎は堂の前に立って大声に言った。「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫が族《うから》のものじゃ。大夫が使う奴《やっこ》の一人が、この山に逃げ込んだのを、たしかに認めたものがある。隠れ場は寺内よりほかにはない。すぐにここへ出してもらおう」ついて来た大勢が、「さあ、出してもらおう、出してもらおう」と叫んだ。
 本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いている。その石の上には、今手に手に松明を持った、三郎が手のものが押し合っている。また石畳の両側には、境内に住んでいる限りの僧俗が、ほとんど一人も残らず簇《むらが》っている。これは討手の群れが門外で騒いだとき、内陣からも、庫裡《くり》からも、何事が起ったかと、怪しんで出て来たのである。
 初め討手が門外から門をあけいと叫んだとき、あけて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、あけまいとした僧侶が多かった。それを住持|曇猛律師《どんみょうりつし》があけさせた。しかし今三郎が大声で、逃げた奴を出せと言うのに、本堂は戸を閉じたまま、しばらくの間ひっそりとしている。
 三郎は足踏みをして、同じことを二三度繰り返した。手のもののうちから「和尚さん、どうしたのだ」と呼ぶものがある。それに短い笑い声が交じる。
 ようようのことで本堂の戸が静かにあいた。曇猛律師が自分であけたのである。律師は偏衫《へんさん》一つ身にまとって、なんの威儀をも繕《つくろ》わず、常燈明の薄明りを背にして本堂の階《はし》の上に立った。丈《たけ》の高い巌畳《がんじょう》な体と、眉のまだ黒い廉張《かどば》った顔とが、揺《ゆら》めく火に照らし出された。律師はまだ五十歳を越したばかりである。
 律師はしずかに口を開いた。騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声は隅々まで聞えた。「逃げた下人《げにん》を捜しに来られたのじゃな。当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟《けんげき》を執《と》って、多人数押し寄せて参られ、三門を開けと言われた。さては国に大乱でも起ったか、公《おおやけ》の叛逆人《はんぎやくにん》でも出来たかと思うて、三門をあけさせた。それになんじゃ。御身《おんみ》が家の下人
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