なったお頭《つむり》を見ることが出来ません。姉えさん。あなたはわたしに隠して、何か考えていますね。なぜそれをわたしに言って聞かせてくれないのです」
安寿はけさも毫光《ごうこう》のさすような喜びを額にたたえて、大きい目をかがやかしている。しかし弟の詞には答えない。ただ引き合っている手に力を入れただけである。
山に登ろうとする所に沼がある。汀《みぎわ》には去年見たときのように、枯れ葦《あし》が縦横に乱れているが、道端の草には黄ばんだ葉の間に、もう青い芽の出たのがある。沼の畔《ほとり》から右に折れて登ると、そこに岩の隙間《すきま》から清水の湧《わ》く所がある。そこを通り過ぎて、岩壁を右に見つつ、うねった道を登って行くのである。
ちょうど岩の面《おもて》に朝日が一面にさしている。安寿は畳《かさ》なり合った岩の、風化した間に根をおろして、小さい菫《すみれ》の咲いているのを見つけた。そしてそれを指さして厨子王に見せて言った。「ごらん。もう春になるのね」
厨子王は黙ってうなずいた。姉は胸に秘密を蓄《たくわ》え、弟は憂えばかりを抱いているので、とかく受け応えが出来ずに、話は水が砂に沁《し》み込むようにとぎれてしまう。
去年柴を苅った木立ちのほとりに来たので、厨子王は足を駐《とど》めた。「ねえさん。ここらで苅るのです」
「まあ、もっと高い所へ登ってみましょうね」安寿は先に立ってずんずん登って行く。厨子王は訝《いぶか》りながらついて行く。しばらくして雑木林よりはよほど高い、外山《とやま》の頂とも言うべき所に来た。
安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。目は、石浦を経て由良の港に注ぐ大雲川の上流をたどって、一里ばかり隔った川向いに、こんもりと茂った木立ちの中から、塔の尖《さき》の見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟を呼びかけた。「わたしが久しい前から考えごとをしていて、お前ともいつものように話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくてもいいから、わたしの言うことをよくお聞き。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすいことではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あさまとご一しょに岩代を出てから、わたしどもは恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、よい人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから思いきって、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏《かみほとけ》のお導きで、よい人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りになったお父うさまのお身の上も知れよう。佐渡へお母あさまのお迎えに往くことも出来よう。籠や鎌は棄てておいて、※[#「木+累」、第3水準1−86−7]子《かれいけ》だけ持って往くのだよ」
厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬《ほお》を伝って流れて来た。「そして、姉えさん、あなたはどうしようというのです」
「わたしのことは構わないで、お前一人ですることを、わたしと一しょにするつもりでしておくれ。お父うさまにもお目にかかり、お母あさまをも島からお連れ申した上で、わたしをたすけに来ておくれ」
「でもわたしがいなくなったら、あなたをひどい目に逢わせましょう」厨子王が心には烙印《やきいん》をせられた、恐ろしい夢が浮ぶ。
「それはいじめるかも知れないがね、わたしは我慢して見せます。金で買った婢《はしため》をあの人たちは殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立ちの所で、わたしは柴をたくさん苅ります。六荷までは苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」こう言って安寿は先に立って降りて行く。
厨子王はなんとも思い定めかねて、ぼんやりしてついて降りる。姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、その上物に憑《つ》かれたように、聡《さと》く賢《さか》しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
木立ちの所まで降りて、二人は籠と鎌とを落ち葉の上に置いた。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。「これは大事なお守だが、こんど逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護り刀と一しょにして、大事に持っていておくれ」
「でも姉えさんにお守がなくては」
「いいえ。わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、きっと討手《うって》がかかります。お前がいくら急いでも、あたり前に逃げて行っては、追いつかれるにきまっています。さっき
前へ
次へ
全13ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング