は屋號三文字屋であつたことが、大郷信齋の道聽途説《だうていとせつ》に由つて知られる。道聽途説は林|若樹《わかき》さんの所藏の書である。
釜の話は此手紙の中で最も欣賞《きんしやう》すべき文章である。叙事は精緻《せいち》を極めて一の剩語《じようご》をだに著けない。實に據《よ》つて文を行《や》る間に、『そりや釜の中よ』以下の如き空想の發動を見る。壽阿彌は一部の書をも著《あらは》さなかつた。しかしわたくしは壽阿彌がいかなる書をも著はすことを得る能文の人であつたことを信ずる。
次に笛《ふえ》の彦七《ひこしち》と云ふものと、坂東彦三郎とのコンプリマンを取り次いでゐる。彦七はその何人なるを考へることが出來ない。しかし「祭禮の節は不相變御厚情蒙《あひかはらずごこうせいかうむ》り難有由時々申出候《ありがたきよしじゞまうしいでそろ》」と云つてあるから、江戸から神樂《かぐら》の笛を吹きに往く人であつたのではなからうか。
「坂東彦三郎も御噂申出《おんうはさまうしいで》、兎角《とかく》駿河へ參りたい/\と計《ばかり》申居候」の句は、人をして十三驛取締の勢力をしのばしむると同時に、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の襟懷をも想《おも》ひ遣《や》らせる。彦三郎は四世彦三郎であることは論を須《ま》たない。寛政十二年に生れて、明治六年に七十四歳で歿した人だから、此手紙の書かれた時二十九歳になつてゐた。「去《さる》夏狂言評好く拙作の所作事《しよさごと》勤候處、先づ勤めてのき候故、去顏見せには三座より抱へに參候|仕合故《しあはせゆゑ》、まづ役者にはなりすまし申候。」彦三郎を推稱する語の中に、壽阿彌の高く自ら標置してゐるのが窺《うかゞ》はれて、頗る愛敬がある。
次に茶番流行の事が言つてある。これは「別に書付御覽に入候」と云つてあるが、別紙は佚亡《いつばう》してしまつた。
「何かまだ申上度儀御座候やうながら、あまり長事《ながきこと》故、まづ是にて擱筆《かくひつ》、奉待後鴻候《こうこうをまちたてまつりそろ》頓首《とんしゆ》。」此に二月十九日の日附があり、壽阿と署してある。宛《あて》は※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂先生座右としてある。
次に※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂の親戚及同驛の知人に宛てたコンプリマンが書き添へてある。其中に「小右衞門殿へも宜しく」と特筆してあるから、試に棠園《たうゑん》さんに小右衞門の誰なるかを問うて見たが、これはわからなかつた。
壽阿彌は此等の人々に一々書を裁するに及ばぬ分疏《いひわけ》に、「府城、沼津、燒津等|所々認《しよ/\したゝめ》候故、自由ながら貴境は先生より御口達|奉願候《ねがひたてまつりそろ》」と云つてゐる。わたくしは筆不精ではないが、手紙不精で、親戚故舊に不沙汰ばかりしてゐるので、讀んで此《こゝ》に到つた時壽阿彌のコルレスポンダンスの範圍に驚かされた。
壽阿彌の生涯は多く暗黒の中《うち》にある。抽齋文庫には秀鶴册子《しうかくさうし》と劇神仙話とが各《おの/\》二部あつて、そのどれかに抽齋が此人の事を手記して置いたさうである。青々園伊原さんの言《こと》に、劇神仙話の一本は現に安田|横阿彌《よこあみ》さんの藏※[#「去/廾」、204−下−9]《ざうきよ》する所となつてゐるさうである。若し其本に壽阿彌が上に光明を投射する書入がありはせぬか。
抽齋文庫から出て世間に散らばつた書籍の中《うち》、演劇に關するものは、意外に多く横阿彌さんの手に拾ひ集められてゐるらしい。珍書刊行會は曾《かつ》て抽齋の奧書のある喜三二が隨筆を印行したが、大正五年五月に至つて、又|飛蝶《ひてふ》の劇界珍話と云ふものを收刻した。前者は無論横阿彌さんの所藏本に據つたものであらう。後者に署してある名の飛蝶は、抽齋の次男|優善《やすよし》後の優《ゆたか》が寄席《よせ》に出た頃看板に書かせた藝名である。劇界珍話は優善の未定稿が澀江氏から安田氏の手にわたつてゐて、それを刊行會が謄寫したものではなからうか。
十
壽阿彌の生涯は多く暗黒の中にある。寫本刊本の文獻に就てこれを求むるに、得る所が甚だ少い。然るにわたくしは幸に一人の活きた典據を知つてゐる。それは伊澤|蘭軒《らんけん》の嗣子|榛軒《しんけん》の女《むすめ》で、棠軒の妻であつた曾能子刀自《そのことじ》である。刀自は天保六年に生れて大正五年に八十二歳の高齡を保つてゐて、耳も猶《なほ》聰《さと》く、言舌も猶さわやかである。そして壽阿彌の晩年の事を實驗して記憶してゐる。
刀自の生れた天保六年には、壽阿彌は六十七歳であつた。即ち此手紙が書かれてから七年の後に、刀自は生れたのである。刀自が四五歳の頃は壽阿彌が七十か七十一の頃で、それから刀自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此|畸人《きじん》の言行は少女の目に映じてゐたのである。
刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた袱紗《ふくさ》が知友の間に配られた。
次に壽阿彌の奇行が穉《をさな》かつた刀自に驚異の念を作《な》さしめたことがある。それは壽阿彌が道に溺《いばり》する毎に手水《てうづ》を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
わたくしは前に壽阿彌の托鉢《たくはつ》の事を書いた。そこには一たび假名垣魯文《かながきろぶん》のタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の滑稽《こつけい》の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事《しよさごと》をしくんだ壽阿彌に斯《かく》の如き滑稽のあつたことは怪むことを須《もち》ゐない。
しかし壽阿彌の生活の全體、特にその僧侶《そうりよ》としての生活が、啻《たゞ》に滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は眞面目《しんめんぼく》の僧侶である。眞面目の學者である。只《たゞ》此僧侶學者は往々人に異なる行を敢《あへ》てしたのである。
壽阿彌は刀自の穉《をさな》かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に闕《か》かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日《きにち》である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經《どきやう》を請ひ、それが畢《をは》つてから饗應して還《かへ》す例になつてゐた。饗饌《きやうぜん》には必ず蕃椒《たうがらし》を皿《さら》に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを剩《あま》さずに食べた。「あの方は年に馬に一|駄《だ》の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣《ほふえ》であつたと刀自は云ふ。
壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向《ゑかう》に往き、素封家《そほうか》へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を請《しやう》ずる家が殊《こと》に多かつた。
壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此|講筵《かうえん》も亦獨り伊澤氏に於て開かれたのみではなく、他家でも催されたさうである。刀自は壽阿彌が同じ講釋をしに永井えいはく方へ往くと云ふことを聞いた。
永井えいはくは何人なるを詳《つまびらか》にしない。醫師か、さなくば所謂《いはゆる》お坊主などで、武鑑に載せてありはせぬかと思つて檢したが、見當らなかつた。表坊主に横井榮伯があつて、氏名が稍《やゝ》似てゐるが、これは別人であらう。或《あるひ》は想ふに、永井氏は諸侯の抱《かゝへ》醫師|若《もし》くは江戸の町醫ではなからうか。
十一
壽阿彌が源氏物語の講釋をしたと云ふことに因《ちな》んだ話を、伊澤の刀自は今一つ記憶してゐる。それはかうである。或時人々が壽阿彌の噂をして、「あの方は坊さんにおなりなさる前に、奧さんがおありなさつたでせうか」と誰やらが問うた。すると誰やらが答へて云つた。「あの方は己《おれ》に源氏のやうな文章で手紙を書いてよこす女があると、己はすぐ女房に持つのだがと云つて入らつしやつたさうです。しかしさう云ふ女がとう/\無かつたと云ふことです。」此話に由つて觀れば、五郎作は無妻であつたと見える。五郎作が千葉氏の女壻《ぢよせい》になつて出されたと云ふ、喜多村|※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《ゐんてい》の説は疑はしい。
壽阿彌は伊澤氏に來ても、囘向《ゑかう》に來た時には雜談などはしなかつた。しかし講釋に來た時には、事果てゝ後に暫《しばら》く世間話をもした。刀自はそれに就いてかう云ふ。「惜しい事には其時壽阿彌さんがどんな話をなさつたやら、わたくしは記《おぼ》えてゐません。どうも石川貞白さんなどのやうに、子供の面白がるやうな事を仰《おつし》やらなかつたので、後にはわたくしは餘り其席へ出ませんでした。」石川貞白は伊澤氏と共に福山の阿部家に仕へてゐた醫者である。當時阿部家は伊勢守正弘《いせのかみまさひろ》の代であつた。
刀自は壽阿彌の姪《をひ》の事をも少し知つてゐる。姪は五郎作の妹の子であつた。しかし恨むらくは其名を逸した。刀自の記憶してゐるのは蒔繪師《まきゑし》としての姪の號で、それはすゐさいであつたさうである。若し其文字を知るたつきを得たら、他日訂正することゝしよう。壽阿彌が蒔繪師の株を貰《もら》つたことがあると云ふ※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]庭《ゐんてい》の説は、これを誤り傳へたのではなからうか。
刀自の識つてゐた頃には、壽阿彌は姪に御家人の株を買つて遣つて、淺草菊屋橋の近所に住はせてゐた。其株は扶持《ふち》が多く附いてゐなかつたので、姪は内職に蒔繪をしてゐたのださうである。
或るとき伊澤氏で、蚊母樹《いすのき》で作つた櫛《くし》を澤山に病家から貰つたことがある。榛軒は壽阿彌の姪に誂《あつら》へて、それに蒔繪をさせ、知人《しるひと》に配つた。「大そう牙《は》の長い櫛でございましたので、其《その》比《ころ》の御婦人はお使なさらなかつたさうです、今なら宜しかつたのでせう」と刀自は云つた。
菊屋橋附近の家へは、刀自が度々榛軒に連れられて往つた。始て往つた時は十二歳であつたと云ふから、弘化三年に壽阿彌が七十七歳になつた時の事である。其頃からは壽阿彌は姪と同居してゐて、とう/\其家で亡くなつた。刀自はそれが盂蘭盆《うらぼん》の頃であつたと思ふと云ふ。嘉永元年八月二十九日に歿したと云ふ記載と、略《ほゞ》符合してゐる。
壽阿彌の姪が茶技《ちやき》に精《くは》しかつたことは、伯父《をぢ》の手紙に徴して知ることが出來るが、その蒔繪を善《よ》くしたことは、刀自の話に由つて知られる。其他蒔繪師としての號をすゐさいと云つたこと、壽阿彌がためには妹の子であつたこと、御家人であつたこと等の分かつたのも、亦《また》刀自の賜である。
最後に殘つてゐるのは、壽阿彌と水戸家との關係である。壽阿彌が水戸家の用達《ようたし》であつたと云ふことは、諸書に載せてある。しかし兩者の關係は必ず此用達の名義に盡きてゐるものとも云ひ難《にく》い。
新石町の菓子商なる五郎作は富豪の身の上ではなかつたらしい。それがどうして三家の一たる水戸家の用達になつてゐたか。又|剃髮《ていはつ》して壽阿彌となり、幕府の連歌師の執筆にせられてから後までも、どうして水戸家との關係が繼續せられてゐたか。これは稍《やゝ》暗黒なる一問題である。
十二
何故《なにゆえ》に生涯|富人《ふうじん》ではなかつたらしい壽阿彌が水戸家の用達と呼ばれてゐたかと云ふ問題は、單に彼《かの》海録に見えてゐる如く、數代前から用達を勤めてゐたと云ふのみを以て解釋し盡されてはゐない。水戸家が此用達を待つことの頗る厚かつたのを見ると、問題は一層の暗黒を加ふる感がある。
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