月五日に八十四歳で歿した。此人は増田氏累世中で、最も學殖あり最も文事ある人であつた。所謂《いはゆる》田威、字《あざな》は伯孚《はくふ》、別號は東里である。詩を善くし書を善くして、一時の名流に交つた。文政四年に七十の賀をした時、養拙齋高岡秀成、字は實甫《じつぽ》と云ふものが壽序を作つて贈つた。二本傳次の妻は東里が長女の第八女であつた。眞志屋が少くも此家と間接に親戚たることは、此一條のみを以てしても證するに足るのである。六代三右衞門はわたくしの閲《けみ》した系譜に載せて無い。増田氏は世《よゝ》駒込願行寺を菩提所としてゐるのに、獨り此人は谷中長運寺に葬られたさうである。七代三右衞門は天保十一年十月二日に四十四歳で歿し、寶龍院乘譽依心連戒居士と法諡《ほふし》せられた。
 按《あん》ずるに此頃に至るまでは、金澤三右衞門は丹後と稱せずして越後と稱したのではなからうか。文化の末に金澤瀬兵衞と云ふものが長崎|奉行《ぶぎやう》を勤めてゐたが、此人は叙爵の時|越後守《ゑちごのかみ》となるべきを、菓子商の稱を避けて百官名を受け、大藏少輔《おほくらせういう》にせられたと、大郷信齋の道聽塗説《どうていとせつ》に
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