し録するに足らない。川上宗壽が連歌を以て壽阿彌に交つたことは、※[#「くさかんむり/必」、第3水準1−90−74]堂《ひつだう》に遣つた手紙に見えてゐた。
眞志屋の扶持は初め河内屋島が此家に嫁した時、米百俵づつ三季に渡され、次で元文三年に七人扶持に改められ、九代一鐵の時寛政五年に暫くの内三人半扶持を減して三人半扶持にせられたことは既に記した。眞志屋文書中の「文化八年|未《ひつじの》正月|御扶持渡通帳《おんふちわたしかよひちやう》」に據るに、此後文化五年|戊辰《ぼしん》に「三人半扶持の内一人半扶持借上二人扶持|被下置《くだしおかる》」と云ふことになつた。これは十代|若《もし》くは十一代の時の事である。眞志屋文書はこれより後の記載を闕《か》いてゐる。然るに金澤蒼夫さんの所藏の文書に據れば、天保七年丙申に又「一人扶持借上暫くの内一人扶持被下置」と云ふことになり、終に初の七人扶持が一人扶持となつたのである。しかし此一人扶持は、明治元年藩政改革の時に至るまで引き續いて、水戸家が眞志屋の後繼者たる金澤氏に給してゐたさうである。
三十二
西村廓清の妻島の里親河内屋半兵衞が、西村氏の眞志屋五郎兵衞と共に、世《よゝ》水戸家の用達であつたことは、夙《はや》く海録の記する所である。しかしわたくしは眞志屋の菓子商たるを知つて、河内屋の何商たるを知らなかつた。そのこれを知つたのは、金澤蒼夫さんを訪うた日の事である。
わたくしは蒼夫さんの家に於て一の文書を見た。其中に「河内屋半兵衞、元和中より麪粉類《めんふんるゐ》御用相勤」云々《しか/″\》の文があつた。河内屋は粉商であつた。島は粉屋の娘であつた。わたくしの新に得た知識は啻《たゞ》にそれのみではない。河内屋が古くより水戸家の用達をしてゐたとは聞いてゐたが、いつからと云ふことを知らなかつた。その元和以還の用達たることは此文に徴して知られたのである。慶長中に水戸頼房入國の供をしたと云ふ眞志屋の祖先に較ぶれば少しく遲れてゐるが、河内屋も亦早く元和中に威公頼房の用達となつてゐたのである。
金澤氏六代の増田東里には、弊帚集《へいさうしふ》と題する詩文稿があることを、蒼夫さんに聞いた。わたくしは卒《にはか》に聞いて弊帚の名の耳に熟してゐるのを怪んだ。後に想へば、水戸の栗山潜鋒《くりやませんぽう》に弊帚集六卷があつて火災に罹《かゝ》り
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