めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を閲《けみ》し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち截《き》つた維新の期に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは略《ほゞ》此《こゝ》に盡きた。
 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。
 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。袱紗《ふくさ》に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら太《はなは》だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で綴《と》ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ八十《やそ》のちまたの門《かど》の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「八十《やそ》になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。
 此二句は書估《しよこ》活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ枕團子《まくらだんご》をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。
 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月|晦日《みそか》の作、歳旦の句は嘉永元年正月|朔《ついたち》の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして病《やまひ》革《すみやか》なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。
 月今宵は少くも灑脱《しやだつ》の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の百足《もゝた》らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。
 短册の手迹《しゆせき》を見るに、壽阿彌は
前へ 次へ
全52ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング