山公を謂ふのである。
此俸祿の事は先祖書の方には、側女中《そばぢよちゆう》島を娶《めと》つた次の代廓清が受けたことにしてある。「乍恐《おそれながら》御西山君樣御代|御側向《おんそばむき》御召抱お島|之御方《のおんかた》と被申候《まうされそろ》を妻に被下置《くだしおかれ》厚き奉蒙御重恩候而《ごぢゆうおんをかうむりたてまつりそろて》、年々御米百俵|宛《づゝ》三季に享保年中迄頂戴仕來冥加至極難有仕合《きやうはうねんちゆうまでちやうだいつかまつりきたりみやうがしごくありがたきしあはせ》に奉存候《ぞんじたてまつりそろ》」と云つてある。しかし清休がためには、島は子婦《よめ》である。光圀は清休をして島を子婦として迎へしめ、俸祿を與へたのであらう。
八百屋お七の幼馴染《をさななじみ》で、後に眞志屋祖先の許《もと》に嫁した島の事は海録に見えてゐる。お七が袱紗を縫つて島に贈つたのは、島がお屋敷奉公に出る時の餞別《せんべつ》であつたと云ふことも、同書に見えてゐる。しかし水戸家から下《さが》つて眞志屋の祖先の許に嫁した疑問の女が即ち此島であつたことは、わたくしは知らなかつた。島の奉公に出た屋敷が即ち水戸家であつたことは、わたくしは知らなかつた。眞志屋文書を見るに及んで、わたくしは落胤問題と八百屋お七の事とが倶《とも》に島、其岳父、其夫の三人の上に輳《あつま》り來《きた》るのに驚いた。わたくしは三人と云つた。しかし或は一人と云つても不可なることが無からう。其中心人物は島である。
眞志屋の祖先と共に、水戸家の用達を勤めた河内屋《かはちや》と云ふものがある。眞志屋の祖先が代々五郎兵衞と云つたと同じく、河内屋は代々半兵衞と云つた。眞志屋の家説には、寛文の頃であつたかと云つてあるが、當時の半兵衞に一人の美しい女《むすめ》が生れて、名を島と云つた。島は後に父の出入屋敷なる水戸家へ女中に上ることになつた。
十九
河内屋は本郷森川宿に地所を持つてゐた。それを借りて住んでゐる八百屋市左衞門にも、亦一人の美しい女《むすめ》があつて、名を七と云つた。七は島よりは年下であつたであらう。島が水戸家へ奉公に上る時、餞別に手づから袱紗を縫つて贈つた。表は緋縮緬《ひぢりめん》、裏は紅絹《もみ》であつた。
島が小石川の御殿に上つてから間もなく、森川宿の八百屋が類燒した。此火災のために市左衞門等は駒込
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