くて、壽阿彌の祖先の母であつたかも知れない。海録に據れば、眞志屋は數代菓子商で、水戸家の用達をしてゐたらしい。隨つて落胤問題も壽阿彌の祖先の身の上に歸著するかも知れない。
若し然らずして、嘉永元年に八十歳で歿した壽阿彌自身が、彼《かの》疑問の女の胎内に舍《やど》つてゐたとすると、壽阿彌の父は明和五六年の交に於ける水戸家の當主でなくてはならない。即ち水戸參議|治保《はるもり》でなくてはならない。
十三
わたくしは壽阿彌の手紙と題する此文を草して將《まさ》に稿を畢《をは》らむとした。然るに何となく心に慊《あきたら》ぬ節《ふし》があつた。何事かは知らぬが、當《まさ》に做《な》すべくして做さざる所のものがあつて存する如くであつた。わたくしは前段の末に一の終の字を記すことを猶與《いうよ》した。
そしてわたくしはかう思惟《しゆゐ》した。わたくしは壽阿彌の墓の所在を知つてゐる。然るに未《いま》だ曾《かつ》て往《ゆ》いて訪《とぶら》はない。數《しば/\》其名を筆にして、其文に由つて其人に親みつゝ、程近き所にある墓を尋ぬることを怠つてゐるのは、遺憾とすべきである。兎に角一たび往つて見ようと云ふのである。
雨の日である。わたくしは意を決して車を命じた。そして小石川傳通院の門外にある昌林院《しやうりんゐん》へ往つた。
住持の僧は來意を聞いて答へた。昌林院の墓地は數年前に撤して、墓石の一部は傳通院の門内へ移し入れ、他の一部は洲崎へ送つた。壽阿彌の墓は前者の中にある。しかし柵《さく》が結《ゆ》つて錠が卸してあるから、雨中に詣《まう》づることは難儀である。幸に當院には位牌《ゐはい》があつて、これに記した文字は墓表と同じであるから佛壇へ案内して進ぜようと答へた。
わたくしは問うた。「柵が結つてあると仰《おつし》やるのは、壽阿彌一人の墓の事ですか。それとも石塔が幾つもあつて、それに柵が結ひ繞《めぐ》らしてあるのですか。」これは眞志屋の祖先數代の墓があるか否かと思つて云つたのである。
「墓は一つではありません。藤井紋太夫の墓も、力士谷の音の墓もありますから。」
わたくしは耳を欹《そばだ》てた。「それは思ひ掛けないお話です。藤井紋太夫だの谷の音だのが、壽阿彌に縁故のある人達だと云ふのですか。」
僧は此間の消息を詳《つまびらか》にしてはゐなかつた。しかし昔から一つ所に葬つて
前へ
次へ
全52ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング