自が十四歳の時に壽阿彌が八十で歿するまで、此|畸人《きじん》の言行は少女の目に映じてゐたのである。
 刀自の最も古い記憶として遺つてゐるのは壽阿彌の七十七の賀で、刀自が十一歳になつた弘化二年の出來事である。此賀は刀自の父榛軒が主として世話を燒いて擧行したもので、歌を書いた袱紗《ふくさ》が知友の間に配られた。
 次に壽阿彌の奇行が穉《をさな》かつた刀自に驚異の念を作《な》さしめたことがある。それは壽阿彌が道に溺《いばり》する毎に手水《てうづ》を使ふ料にと云つて、常に一升徳利に水を入れて携へてゐた事である。
 わたくしは前に壽阿彌の托鉢《たくはつ》の事を書いた。そこには一たび假名垣魯文《かながきろぶん》のタンペラマンを經由して寫された壽阿彌の滑稽《こつけい》の一面のみが現れてゐた。劇通で芝居の所作事《しよさごと》をしくんだ壽阿彌に斯《かく》の如き滑稽のあつたことは怪むことを須《もち》ゐない。
 しかし壽阿彌の生活の全體、特にその僧侶《そうりよ》としての生活が、啻《たゞ》に滑稽のみでなかつたことは、活きた典據に由つて證せられる。少時の刀自の目に映じた壽阿彌は眞面目《しんめんぼく》の僧侶である。眞面目の學者である。只《たゞ》此僧侶學者は往々人に異なる行を敢《あへ》てしたのである。
 壽阿彌は刀自の穉《をさな》かつた時、伊澤の家へ度々來た。僧侶としては毎月十七日に闕《か》かさずに來た。これは此手紙の書かれた翌年、文政十二年三月十七日に歿した蘭軒の忌日《きにち》である。此日には刀自の父榛軒が壽阿彌に讀經《どきやう》を請ひ、それが畢《をは》つてから饗應して還《かへ》す例になつてゐた。饗饌《きやうぜん》には必ず蕃椒《たうがらし》を皿《さら》に一ぱい盛つて附けた。壽阿彌はそれを剩《あま》さずに食べた。「あの方は年に馬に一|駄《だ》の蕃椒を食べるのださうだ」と人の云つたことを、刀自は猶記憶してゐる。壽阿彌の著てゐたのは木綿の法衣《ほふえ》であつたと刀自は云ふ。
 壽阿彌に請うて讀經せしむる家は、獨り伊澤氏のみではなかつた。壽阿彌は高貴の家へも囘向《ゑかう》に往き、素封家《そほうか》へも往つた。刀自の識つてゐた範圍では、飯田町あたりに此人を請《しやう》ずる家が殊《こと》に多かつた。
 壽阿彌は又學者として日を定めて伊澤氏に請ぜられた。それは源氏物語の講釋をしに來たのである。此|講筵《かう
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