名は年表と手紙とに互に出入がある。年表には「東風にて西神田町一圓に類燒し、又北風になりて、本銀町《ほんしろかねちやう》、本町《ほんちやう》、石町《こくちやう》、駿河町《するがちやう》、室町《むろまち》の邊に至り、夜|亥《ゐ》の下刻《げこく》鎭《しづ》まる」と云つてある。手紙には「西神田はのこらず燒失、北は小川町へ燒け出で、南は本町一丁目片かは燒申候、(中略)町數七十丁餘、死亡の者六十三人と申候ことに御座候」と云つてある。
 わたくしの前に云つた推測は、壽阿彌が姪の家と此火事との關係によつてプロバビリテエを増すのである。手紙に「愚姪方《ぐてつかた》は大道一筋の境にて東神田故、此《この》度《たび》は免れ候へ共、向側は西神田故過半燒失仕り候」と云つてある。わたくしはこの姪の家を新石町だらうと推するのである。

     八

 文政十一年二月五日に多町二丁目から出た火事に、大道一筋を境にして東側にあつて類燒を免れた家は、新石町にあつたとするのが殆ど自然であらう。新石町は諸書に見えてゐる眞志屋の菓子店のあつた街である。そこから日輪寺方へ移る時、壽阿彌は菓子店を姪に讓つたのだらう、其時昔の我店が「愚姪方」になつたのだらうと云ふ推測は出て來るのである。
 壽阿彌は若《も》し此火事に姪の家が燒けたら、自分は無宿になる筈であつたと云つてゐる。「難澁之段|愁訴可仕《しうそつかまつるべき》水府も、先達而《せんだつて》丸燒故難澁申出候處無之、無宿に成候筈」云々《うんぬん》と云つてゐる。これは此手紙の中の難句で、句讀《くとう》次第でどうにも讀み得られるが、わたくしは水府もの下で切つて、丸燒は前年七月の眞志屋の丸燒を斥《さ》すものとしたい。既に一たび丸燒のために救助を仰いだ水戸家に、再び愁訴することは出來ぬと云ふ意味だとしたい。なぜと云ふに丸燒故の下で切ると、水府が丸燒になつたことになる。當時の水戸家は上屋敷が小石川門外、中屋敷が本郷追分、目白の二箇所、下屋敷が永代新田《えいたいしんでん》、小梅村の二箇所で、此等は火事に逢つてゐないやうである。壽阿彌が水戸家の用達《ようたし》商人であつたことは、諸書に載せてある通りである。
 壽阿彌の手紙には、多町《たちやう》の火事の條下に、一の奇聞が載せてある。此《こゝ》に其全文を擧げる。「永富町《ながとみちやう》と申候處の銅物屋《かなものや》大釜《おほが
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