の日數を經ねば治しがたしと申候。」流行醫の口吻《こうふん》、昔も今も殊《こと》なることなく、實に其聲を聞くが如くである。
 壽阿彌は文政十年七月の末に怪我をして、其時から日々名倉へ通つた。「極月《ごくげつ》末までかゝり申候」と云つてあるから、五箇月間通つたのである。さて翌年二月十九日になつても、「今以而《いまもつて》全快と申には無御座候而《ござなくさふらうて》、少々|麻痺《まひ》仕候氣味に御座候へ共、老體のこと故、元の通りには所詮《しよせん》なるまいと、其《その》儘《まゝ》に而《て》此節は療治もやめ申候」と云ふ轉歸である。
 手紙には當時の名倉の流行が叙してある。「元大阪町名倉|彌次兵衞《やじべゑ》と申候而、此節高名の骨接《ほねつぎ》醫師、大《おほい》に流行にて、日々八十人九十人位づゝ怪我人參候故、早朝參候而も順繰に待居候間、終日かゝり申候。」流行醫の待合の光景も亦古今同趣である。次《つい》で壽阿彌が名倉の家に於て邂逅《かいこう》した人々の名が擧げてある。「岸本|※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園《ざいゑん》、牛込の東更《とうかう》なども怪我にて參候、大塚三太夫息八郎と申人も名倉にて邂逅《かいこう》、其節|御噂《おんうはさ》も申出候。」やまぶきぞのの岸本|由豆流《ゆづる》は寛政元年に生れ、弘化三年に五十八歳で歿したから、壽阿彌に名倉で逢つた文政十年には三十九歳である。通稱は佐々木信綱さんに問ふに、大隅《おほすみ》であつたさうであるが、此年の武鑑|御弦師《おんつるし》の下《もと》には、五十俵|白銀《しろかね》一丁目岸本能聲と云ふ人があるのみで、大隅の名は見えない。能聲と大隅とは同人か非か、知る人があつたら教へて貰ひたい。牛込の東更は艸體《さうたい》の文字が不明であるから、讀み誤つたかも知れぬが、その何人たるを詳《つまびらか》にしない。大塚父子も未だ考へ得ない。

     七

 壽阿彌は怪我の話をして、其末には不沙汰《ぶさた》の詫言《わびこと》を繰り返してゐる。「怪我|旁《かた/″\》」で疎遠に過したと云ふのである。此詫言に又今一つの詫言が重ねてある。それは例年には品物を贈るに、今年は「から手紙」を遣ると云ふので、理由としては「御存知の丸燒後萬事不調」だと云ふことが言つてある。
 壽阿彌の家の燒けたのは、いつの事か明かでない。又その燒けた家もどこの家だか明
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