好く笑つて、その儘部屋の奥の方へ行つてしまつた。戸口の方へ行つたのらしい。
「はてな。己を呼び入れようとするのかな」と思ひながら、ソロドフニコフは立ち留まつた。その儘行つてしまふが好いか、それとも待つてゐるが好いかと、判断に困つた。
 パン屋の店の処の入口の戸が開いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。
「先生。あなたですか。」
 ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにゐた。そこでためらひながら戸口に歩み寄つた。闇の中に立つてゐるゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋へ寄つて、学士を通さうとした。
「いやはや、飛んだ事になつた。とう/\なんの用事もないに、人の内へ案内せられることになつた」と、学士は腹の中で思つて、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶつ附かりながら、這入つて行く。
 廊下は焼き立てのパンと、捏《こ》ねたパン粉との匂がしてゐて、空気は暖で、むつとしてゐる。
 見習士官は先きに立つて行つて、燈火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢ふものだと思つて、微笑《ほゝゑ》みながら閾を跨いだ。
 見習士官は不恰好な古い道具を
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