へんだと思つた。
「無論です。或るものは意識してさう思ふでせう。或るものは無意識にさう思ふでせう。人の生涯とは人そのものです。自己です。人は何物をも自己以上に愛するといふことはないのです。」
「だからどうだと云ふのですか。」
「どうも分かりません。先生は何をお尋ねなさるのでせう」とゴロロボフが云つた。
ソロドフニコフはこの予期しない問を出されて、思量の端緒を失つてしまつた。そして暫くの間は、茫然として、顔を赤くして見習士官の顔を見てゐて、失つた思量の端緒を求めてゐた。然るにそれが獲られない。それに反して、今ゴロロボフが多分己を馬鹿だと思つてゐるだらう。己を冷笑してゐるだらうと思はれてならない。さう思ふと溜まらない心持になる。そして一旦は真蒼になつて、その跡では真赤になつた。太つた白い頸に血が一ぱい寄つて来た。間もなくこの憤懣の情が粗暴な、意地の悪い表情言語になつて迸《ほとばし》り出た。わざと相手を侮辱して遣らうと思つたのである。学士は自分の顔を、ずつと面皰《にきび》だらけのきたない相手の顔の側へ持つて行つて、殆ど歯がみをするやうな口吻《こうふん》で、「一体君はなんの為めにこんな馬鹿な
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