フは本町の詰まで行つて、踵《くびす》を旋《めぐ》らして、これからすぐに倶楽部へ行かうと思つた。その時誰やら向うから来た。それを見ると、知つた人で、歩兵見習士官ゴロロボフといふ人であつた。此人の癖で、いつものわざとらしい早足で、肩に綿の入れてある服の肩を怒らせて、矢張胸に綿の入れてある服の胸を張つて、元気好く漆沓《うるしぐつ》の足を踏み締めて、ぬかるみ道を歩いてゐる。
 見習士官が丁度自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云つた。「いや。相変らずお元気ですな。」
 ゴロロボフは丁寧に会釈をして、右の手の指を小さい帽の庇に当てた。
 ソロドフニコフは只何か言はうといふ丈の心持で云つた。「どこへ行くのですか。」
 見習士官は矢張丁寧に、「内へ帰ります」と答へた。
 ソロドフニコフは「さうですか」と云つた。
 見習士官は前に立ち留まつて待つてゐる。ソロドフニコフは何と云つて好いか分からなくなつた。一体此見習士官をば余り好く知つてゐるのではない。これ迄「どうですか」とか、「さやうなら」とかしか云ひ交はしたことはない。それだから、ソロドフニコフの為めには、先方の賢不肖《けんふせう》なんぞは分かる筈が
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