思つたのが、非常に強烈な印象を与へるので、ソロドフニコフはそこに根が生えたやうに立ち留まつた。
 雨は留めどもなく、ゆつくりと、ざあざあと降つてゐる。ソロドフニコフは踵《くびす》を旋《めぐら》して、忽然大股にあとへ駈け戻つた。ぬかるみに踏み込んで、ずぼんのよごれるのも構はなかつた。息を切らせて、汗をびつしより掻いて、帽を阿弥陀に被つた儘で、ソロドフニコフはゴロロボフの住ひの前に戻つて来て、燈火《ともしび》の光のさしてゐる窓の下に立ち留まつた。一寸見ると、ゴロロボフの顔が見えるやうであつたが、それはサモワルの横つらが燈火の照り返しで光つてゐるのであつた。ランプは同じ所に燃えてゐる。それから、さつき茶を飲んだあとの茶碗が一つと、ぴかぴか光る匙が一本と見えてゐる。見習士官は見えない。ソロドフニコフはどうしようかと思つて窓の下に立つてゐた。なんだか部屋の中がいやにひつそりしてゐて、事に依つたらあの部屋の床《とこ》の上に見習士官は死んで横はつてゐるのではあるまいかと思はれた。
「馬鹿な。丸で気違ひじみた話だ」と、肩を聳やかして、極まりの悪いやうな微笑をして云つた。そして若し誰かが見てゐはすまいか、事に依つたらゴロロボフ本人が窓から見てゐはすまいかと思つた。
 ソロドフニコフは意を決して踵を旋して、腹立たしげに外套の襟を立てて、帽を目深に被り直して、自分の内へ帰つた。
「丸で気違ひだ。人間といふものは、どこまで間違ふものか分からない」と、殆ど耳に聞えるやうに独言を言つた。
「併しなぜ己にはあんな考へが一度も出て来ないのだらう。無論考へたことはあるに違ひないが、無意識に考へたのだ。一体恐ろしいわけだ。かうして平気で一日一日と生きて暮らしてはゐる様なものの、どうせ誰でも死ななくてはならないのだ。それなのになんの為めにいろんな事をやつてゐるのだらう。苦労をするとか、喜怒哀楽を閲《けみ》するとかいふことはさて置き、なんの為めに理想なんぞを持つてゐるのだらう。明日は己を知つてゐるものがみな死んでしまふ。己が大事にして書いてゐるものを鼠が食つてしまふ。それでなければ、人が焼いてしまふ。それでおしまひだ。その跡では誰も己の事を知つてゐるものはない。この世界に己より前に何百万の人間が住んでゐたのだらう。それが今どこにゐる。己は足で埃を蹈んでゐる。この埃は丁度己のやうに自信を持つてゐて、性命を大
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