に迫るやうな、前兆らしい心持が心の底に萌《きざ》して来た。併し強ひて答へた。「さうにも限らないでせう。死んだ後に、未来に性命がないといふことを、君は知つてゐるのですか。」
ゴロロボフは首を掉つた。「それは知りません。併しそれはどうでも宜しいのです。」
「なぜどうでも好いのですか。」
「死んでから性命がない以上は、わたくしの霊は消滅するでせう。又よしやそれがあるとしても、わたくしの霊は矢張消滅するでせう。」二度目には「わたくし」といふ詞に力を入れて云つた。「わたくし自己は消滅します。霊といふものが天国へ行くにしても、地獄へ堕ちるにしても、別な物の体に舎《やど》るにしても、わたくしは亡くなります。この罪悪、習慣、可笑しい性質、美しい性質、懐疑、悟性、愚蒙、経験、無知の主人たる歩兵見習士官ゴロロボフの自我は亡くなります。何が残つてゐるにしても、兎に角ゴロロボフは消滅します。」
ソロドフニコフは聞いてゐて胸が悪くなつた。両脚が顫える。頭が痛む。なんだか抑圧せられるやうな、腹の立つやうな、重くろしい、恐ろしい気がする。
「どうとも勝手にしやがるが好い。気違ひだ。こゝにゐると、しまひにはこつちも気がへんになりさうだ」と学士は腹の中で思つた。そして一言「さやうなら」と云つて、人に衝き飛ばされたやうに、立ち上がつた。
ゴロロボフも矢張立ち上がつた。そして丁度さつきのやうに、慇懃に「さやうなら」と云つた。
「馬鹿をし給ふなよ。物数奇にさつき云つたやうな事を実行しては困りますぜ」と、ソロドフニコフは面白げな調子で云つたが、実際の心持は面白くもなんともなかつた。
「いゝえ。先刻も申した通り、あれはわたくしの確信なのですから。」
「馬鹿な。さやうなら」と、ソロドフニコフは憤然として言ひ放つて、梯子《はしご》の下の段を殆ど走るやうに降りた。
――――――――――――
ソロドフニコフは背後《うしろ》で戸を締める音を聞きながら、早足に往来へ出た。雨も風もひどくなつてゐる。併し外に出たので気分が好い。帽を阿弥陀に被《かぶ》り直した。頭が重くて、額が汗ばんでゐる。
忽然《こつぜん》ソロドフニコフには或る事実が分かつた。あれは理論ではなかつた。或る恐るべき、暗黒な、人の霊を圧する事件である。あれは今はまだ生きてゐて、数分の後には事に依るともう亡くなつてゐる一個の人間の霊である。かう
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