ずる御処分であろう。枉《ま》げてお請をせられたいと云った。九人のものは苦笑して云った。十一人の死は、我々も日夜心苦しく存ずる所である。その苦痛に準ずると云われては、論弁すべき詞《ことば》がない。一同お請いたすと云った。
 九人のものは流人として先例のない袴着帯刀《はかまぎたいとう》の姿で出立したが、久しく蟄居《ちっきょ》して体《からだ》が疲れていたので、土佐郡朝倉村に着いてから、一同足痛を申し立てて駕籠に乗った。配所は幡多郡入田村《はたごおりにゅうたむら》である。庄屋|宇賀祐之進《うがすけのしん》の取計《とりはからい》で、初は九人を一人ずつ農家に分けて入れたが、数日の後一軒の空屋に八人を合宿させた。横田一人は西へ三里隔たった有岡村の法華宗真静寺の住職が、俗縁があるので引き取った。
 九人のものは妙国寺で死んだ同僚十一人のために、真静寺で法会《ほうえ》を行って、次の日から村民に文武の教育を施しはじめた。竹内は四書の素読《そどく》を授け、土居、武内は撃剣を教え、その他の人々も思い思いに諸芸の指南をした。
 入田村は夏から秋に掛けて時疫《じえき》の流行する土地である。八月になって川谷、横田、
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