忽ち雷のような声が響き渡った。
「フランス人共聴け。己《おれ》は汝等《うぬら》のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」と云ったのである。
 箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手《さかて》に取って、左の脇腹へ深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切り上げた。刃が深く入ったので、創口《きずぐち》は広く開いた。箕浦は短刀を棄てて、右手を創に※[#「※」は「插」のつくりの縦棒が下に突き抜けている、184−4]し込んで、大網《だいもう》を掴んで引き出しつつ、フランス人を睨《にら》み付けた。
 馬場が刀を抜いて項《うなじ》を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
 馬場の二の太刀は頸椎《けいつい》を断って、かっと音がした。
 箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もっと切れ」と叫んだ。この声は今までより大きく、三丁位響いたのである。
 初から箕浦の挙動を見ていたフランス公使は、次第に驚駭《きょうがい》と畏怖《いふ》とに襲われた。そして座席に安んぜなくなっていたのに、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とうとう立ち
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